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羽田空港で過ごした青春の日々 「寝泊まり勤務と機内食の裏話」

私が若かりし19才から21才に働いていたのは、

 

日本の空の玄関口羽田空港でした。

 

当時の羽田空港は、今ほど国際化が進んでおらず、

 

現在のような華やかさとは少し異なる雰囲気がありました。

 

空港という場所には常に活気と緊張感があり、

 

働く側としても刺激的な環境でした。

 

特に思い出深いのは、

 

正月やお盆といった大型連休の時期にも、

 

休みなく働いていたことです。

 

家庭を持つ同僚はさすがに帰省や

 

家族との時間を優先していましたが、

 

私はまだ独身だったこともあり、

 

空港に寝泊まりしながらフル稼働で働いていました。

 

 

羽田空港の「住み込み」ライフ

 

空港内には仮眠室が用意されており、

 

大きな部屋にベッドや布団、毛布が整えられていました。

 

24時間体制の勤務に対応するため、

 

誰もがしっかり休息できるよう配慮されていたのです。

 

まさに「住み込み」で働ける環境でした。

 

さらに、社内食堂も完備されていて、

 

会社から配布される食券で朝・昼・晩と

 

三食を無料で食べることができました。

 

お風呂も施設内にあり、

 

シャワーで汗を流すこともできました。

 

寝る場所、食べる場所、お風呂、すべて揃っていたので、

 

空港内だけで1日の生活ができました。

 

出費といえば、休憩中に

 

自動販売機で購入する飲み物くらい。

 

まさに節約生活の極みであり、

 

お金を使う機会が本当にありませんでした。

 

 

「機内食の余剰という現実」

 

空港で働くなかで、特に印象的だったのが

 

「機内食」にまつわる話です。

 

飛行機では必ず余分に機内食を積む決まりがあり、

 

足りなくなると困るので、

 

乗客分よりも常に多めに用意されています。

 

そのため、毎便必ずといっていいほど

 

食事が余るのです。

 

手つかずの状態で戻ってくる

 

パンやお菓子、バター、マーガリン。

 

さらには、

 

アルミホイルで丁寧に包まれた

 

ステーキやハンバーグなどのメインディッシュまで。

 

中にはそれらを自宅に持ち帰るスタッフもいました。

 

最初の頃は、

 

私自身もありがたく頂戴していました。

 

おいしいですし、何より無料。

 

ですが、次第に飽きがきてしまい、

 

気がつけば誰も持って帰らなくなっていたのです。

 

毎日のように大量に運ばれてくる食事と向き合っていると、

 

ありがたみよりも

 

処理の大変さが勝ってしまいます。

 

結局、大量の食器や余った食材は、

 

どんどん処分していくしかなく、

 

まさに「食べ物の循環の裏側」を

 

知る機会でもありました。

 

 

 

「特別手当と働くモチベーション」

 

長期休暇中に働くと、

 

特別手当が支給されました。

 

これがかなりの金額で、

 

働くモチベーションにもつながっていました。

 

私は正月も休まず働いていたため、

 

自分の成人式の日にも仕事をしており、

 

式には参加しませんでした。

 

ですが、自分で選んだ道ですし、後悔はありません。

 

生活の大半を空港内で過ごし、

 

ひたすら仕事に打ち込んだ日々。

 

今振り返ってみると、

 

まるで合宿生活のようでもあり、

 

仲間たちとの一体感や

 

共同体としての意識も強く感じられました。

 

 

「シフト勤務と自分のリズム」

 

空港の業務は24時間体制で回っており、

 

シフトは三交代制でした。

 

* 午前8時〜午後5時

* 午後1時〜午後10時

* 午後10時〜翌朝8時

 

私はもともと朝が苦手だったこともあり、

 

午後1時から始まる

 

中間シフトが身体に合っていました。

 

学生時代から

 

寝坊グセが抜けなかった私にとっては、

 

このスケジュールが

 

ありがたかったのをよく覚えています。

 

 

「今だからこそ伝えたいこと」

 

今の羽田空港は国際化が進み、

 

施設も一新されて近代的な印象を受けますが、

 

私が働いていた時代の羽田空港には、

 

どこか人間味がありました。

 

泥くさくも、リアルで、

 

生きた職場という感じがしていました。

 

空港は単なる交通拠点ではなく、

 

働く人々の人生の舞台でもあります。

 

私はそこで、社会人としての基礎を学び、

 

人としての成長を実感できたように思います。

 

羽田空港での寝泊まり勤務は、

 

決して楽な仕事ではありませんでしたが、

 

今振り返れば貴重な人生の財産です。

 

お金をかけずに暮らせる環境、

 

チームとしての結束感、

 

そして空の下で働く誇り

 

あの頃の経験は、今でも心に深く残っています。

 

忙しない日常の中で、

 

ふとあの頃の羽田空港を思い出すと、

 

胸が熱くなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の羽田空港はこうだった!昭和時代に空港で働いたリアルな体験記

 

【羽田空港の裏側で働いた日々】昭和の思い出と空港の進化

 

令和のいま、羽田空港は日本を代表する

 

国際空港として多くの人に利用されています。

 

国内線はもちろん、

 

海外への玄関口としても重要な役割を果たし、

 

数多くの国際便が発着しています。

 

しかし、

 

現在のように洗練された巨大ハブ空港になる以前、

 

羽田空港にはもう少し素朴で

 

人間味あふれる時代がありました。

 

私はその「古き良き羽田空港」で、

 

約2年間働いていた経験があります。

 

まだ成田空港ができて間もない頃、

 

今回はその懐かしい記憶を辿りながら、

 

当時の空港の様子や仕事の内容をご紹介します。

 

 

昭和の羽田空港「国際線も国内線も集まっていた時代」

 

今では、国際便の多くは成田空港と分担され、

 

羽田空港は主に国内線のイメージが強いかもしれません。

 

しかし昭和の時代、羽田空港は

 

国内線・国際線ともに一手に担う大空港でした。

 

成田空港が開港したのは昭和53年(1978年)のことですが、

 

それまでの羽田空港には

 

アメリカン航空、アリタリア航空、

 

ルフトハンザ航空、ロシア(旧ソ連)の航空会社など、

 

世界中から飛行機が飛来していたのです。

 

 

私の仕事は「機内食の食器洗浄」

 

私は19歳から21歳までの約2年間、

 

羽田空港でアルバイトをしていました。

 

担当していたのは、

 

飛行機内で乗客に提供された

 

機内食の食器を洗浄する仕事です。

 

仕事場には業務用の大型洗浄機があり、

 

幅は2メートル、長さはおよそ20メートルほど。

 

ベルトコンベア式の洗浄機で、

 

トレーやキャサロール、

 

コーヒーカップ、スプーン、フォーク、皿など、

 

あらゆる食器を次々と投入していきました。

 

洗浄機に入れると、自動的に

 

洗い、すすぎ・乾燥までやってくれるため、

 

一見すると簡単な作業のように思われるかもしれません。

 

しかし、実際にはかなりの重労働でした。

 

 

「次から次へと届く大量の食器」

 

当時はジャンボジェット機が主流で、

 

1機に乗っている乗客の数は数百人規模。

つまり、

1便あたり数百セットの食器が戻ってくるのです。

 

そのため、食器洗浄の現場は

 

24時間体制の3交代制で運営されており、

 

常に人が働いいていました。

 

とくに夜間便や国際便が集中する時間帯は忙しく、

 

コンベアから流れてくる食器を

 

いかに滞らせず処理するかが勝負でした。

 

大量の使用済み食器は、ときには臭いも気になり、

 

手作業で仕分けたり、大きなトレーを持ち上げたりと、

 

体力勝負の日々でした。

 

 

「羽田空港の国際色豊かな時代」

 

羽田空港には、日本国内各地の航空便だけでなく、

 

アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど、

 

世界中の航空会社が乗り入れていました。

 

アメリカン航空、アリタリア航空、

 

ルフトハンザ航空、そしてロシアのアエロフロートなど、

 

多種多様な飛行機が飛来し、

 

機内食もそれぞれ異なっていました。

 

機内食のスタイルも国によって違いがあり、

 

例えば、

 

欧米の航空会社は金属製のカトラリーが多く、

 

日本の航空会社はプラスチック製だったり、

 

皿の素材が異なったり。

 

そんな違いを感じながらの仕事は、

 

単調ながらも興味深い面もありました。

 

 

空港で働いたからこそ見えた「空の裏側」

 

空港といえば、

 

旅立ちのワクワクや帰省のぬくもりなど、

 

華やかなイメージがありますが

 

しかしその裏側には、

 

24時間体制で動く無数の人々の努力があるのです。

 

私が働いていた食器洗浄の現場もその一つ。

 

乗客にとっては何気なく受け取る機内食のトレーも、

 

それを支える作業があってこそ提供されていたのだと、

 

今になってしみじみと感じます。

 

 

「平成以降、羽田空港は大きく進化した」

 

平成に入ってからの羽田空港は、

 

施設も大きくなり、滑走路も増設され、

 

ターミナルも近代化されました。

 

国際便も再び多く乗り入れるようになり、

 

再び世界と日本を結ぶ重要な空港となっています。

 

現在の羽田空港の姿を見るたびに、

 

「あの頃の古い羽田空港で汗を流していたこと」

 

を思い出します。

 

 

電車の京急(当時は京浜急行)が

 

直接羽田空港内のターミナルまで乗り入れしたのも

 

平成になってからです。

 

それまでは、はるか手前の

 

海老取川の手前が終点の駅でしたので、

 

京浜急行を利用していた乗客は皆、

 

タクシーかバスで

 

羽田空港内のターミナルまで移動していました。

 

二度手間で、とても不便でしたので

 

遠回りでもJR(当時は国鉄)の浜松町駅で

 

モノレールに乗っていく人が多かったですね。

 

 

そして、あの経験が

 

自分にとってかけがえのない

 

財産になっていると実感します。

 

 

「羽田空港の進化と、懐かしき日々」

 

現在の羽田空港しか知らない世代の方々にとっては、

 

昭和の羽田空港の姿は想像しづらいかもしれません。

 

しかし、あの場所にも人の営みがあり、

 

たくさんの想いと努力が詰まっていました。

 

私にとって羽田空港は、

 

単なる空の玄関口ではなく、

 

自分の青春の一部でもあります。

 

これから羽田空港を訪れる機会があれば、

 

ぜひそんな「裏側で働く人たちの存在」にも

 

思いを馳せてみてください。