【夏の贈り物にぴったり】溶けないアイス「葛アイス7本セット」で涼を届けよう

【夏の贈り物にぴったり】溶けないアイス「葛アイス7本セット」で涼を届けよう

 

暑い夏、冷たいアイスは欠かせませんよね。

 

でも普通のアイスは時間が経つと溶けてしまい、

 

手や服を汚してしまうことも。

 

そんな悩みを解消してくれるのが、

 

溶けない新感覚スイーツ「葛アイス」です。

 

今回は、見た目も涼やかで贈り物にも喜ばれる

 

「葛アイス7本セット」をご紹介します。

 

 

葛アイスってなに?

 

葛アイスは、本葛(ほんくず)粉を使った和スイーツ。

 

葛の特徴であるもちっとした食感と、

ほんのり透明感のある見た目が特徴です。

 

通常のアイスと違い、

時間が経っても形が崩れにくいため、

 

ゆっくり味わえるのが魅力。

 

冷凍庫から出しても、急いで食べる必要がありません。

 

 

カラフルで華やか!7種類のフレーバー

 

葛アイス7本セットには、

色とりどりのフレーバーが揃っています。

 

見た目にも涼しく、食べ比べも楽しい内容です。

 

* フルーツ系(いちご、みかん、キウイなど)
* 和テイスト(抹茶、小豆)
* さっぱり系(レモン、ブルーハワイ風)

 

※季節や製造時期によってラインナップが変わる場合があります。

 

 

葛アイスのメリット

 

1. 溶けないので食べやすい

小さなお子様やご年配の方でも安心。

 

2. 見た目が華やかで贈り物に最適

カラフルな見た目は、箱を開けた瞬間から喜ばれます。

 

3. 低カロリーでヘルシー

さっぱりとした甘さで後味も軽く、食べ過ぎても罪悪感が少ない。

 

4.個包装で衛生的

1本ずつ包装されているので、食べたい分だけ取り出せます。

 

お中元や夏ギフトにおすすめ

葛アイスは見た目にも涼やかで、

 

暑い季節のギフトにぴったり。

 

冷凍のまま配送できるので、

離れて暮らす家族や友人への贈り物にも最適です。

 

特に夏場は、

普通のアイスだと溶けやすく配送も心配ですが、

 

葛アイスなら安心。

「珍しい!」「きれい!」と話題になること間違いなしです。

 

お中元や暑中見舞いにも喜ばれる逸品です。

 

 

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※リンク先で最新の在庫状況や価格をご確認ください。

 

 

まとめ

 

* 溶けないからゆっくり食べられる
* もちっと新食感でクセになる
* カラフルでギフト映えする
* お中元や夏ギフトにおすすめ

 

この夏は、特別感のある「葛アイス7本セット」で、

 

涼しくて美味しい時間をプレゼントしてみませんか?

 

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浄水器「ブリタ マクストラ」と「マクストラプロ」の違いとは?徹底比較!

 

浄水器「ブリタ マクストラ」と「マクストラプロ」の違いとは?徹底比較!

 

家庭で手軽に使えるポット型浄水器として人気のブリタ(BRITA)シリーズ。

 

その中でも「マクストラ」と「マクストラプロ」の違いが

 

気になっている方も多いのではないでしょうか?

 

どちらもブリタの交換用フィルターですが、

 

購入時に「どっちを選べばいいの?」と迷うこともあると思います。

 

この記事では、

 

* マクストラとマクストラプロの違い
* それぞれのメリット・デメリット
* どちらがおすすめか
* 向いている人のタイプ

 

などをわかりやすくご紹介します!

 

 

ブリタ「マクストラ」とは?

 

マクストラは、リタの旧型の浄水フィルターです。

もともとはヨーロッパで普及していたフィルターで、

 

活性炭とイオン交換樹脂のフィルター構造により、

 

水道水に含まれる塩素や金属類(鉛、銅など)を

しっかり除去してくれます。

 

発売当初から「安価で使いやすい」と評判でした。

 

 

ブリタ「マクストラプロ」とは?

 

「マクストラプロ」は、マクストラの改良版・後継モデルです。

 

除去性能がより高くなっており、

日本国内ではこちらが主流となっています。

 

見た目はマクストラと似ていますが、

内部構造が改良され、浄水スピードもアップ。

 

ブリタの公式ではマクストラプラスを推奨しており、

新しいポット型にはこちらが対応しています。

 

 

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マクストラとマクストラプロの主な違い

 

項目  マクストラ  マクストラプロ

発売年  旧モデル   改良された新モデル

対応ポット 古いブリタ製品  最新のブリタ製品全般

除去性能 標準     向上(より多くの不純物を除去)

浄水スピード  やや遅い  スムーズで速い |

価格    安価    やや高め |

 

 

【マクストラ】のメリット・デメリット

 

メリット

 

* 価格が安くコスパが良い

* ブリタ旧型モデルで使える

* 基本的な浄水性能は十分

 

デメリット

 

* 浄水スピードがやや遅い

* 新型ポットに使えない場合がある

* 除去性能がマクストラプラスに劣る

 

 

【マクストラプロ】のメリット・デメリット

 

メリット

 

* 除去性能が高く、より安全な水に

* 浄水スピードが速くストレスなし

* ほとんどのブリタポットに対応

* 日本市場向けに最適化された設計

 

デメリット

 

* 価格がやや高め

* 古いブリタ製品には非対応の場合あり

 

 

ブリタマクストラとマクストラプロはどっちがおすすめ?

 

基本的にはマクストラプロがおすすめです。

特に初めてブリタを購入する方や、

 

最新のポット型を使っている方であれば、

除去性能・使い勝手・対応性の面でも

 

マクストラプロの方が満足度は高いでしょう。

 

ただし、旧型のブリタ製品を使っている方や、

費用を抑えたい方にはマクストラも十分選択肢になります。

 

 

マクストラがおすすめの人

 

* 古いブリタポットを使用している

* フィルターコストを安く抑えたい

* ベーシックな浄水性能で十分と感じる方

 

 

マクストラプロがおすすめの人

 

* 新しいブリタ製品を使っている

* より高い浄水性能を求める

* 浄水スピードや味にこだわる

* 家族で毎日たくさん使う予定がある

 

 

まとめ

 

どちらも良品、でも迷ったらマクストラプロ!

ブリタの「マクストラ」と「マクストラプロ」は、

 

どちらも高品質な浄水フィルターです。

 

ただし、性能・互換性・使い勝手の面で見ると、

現時点ではマクストラプロの方が優れており、

 

今後も主流となる見込みです。

 

迷ったら、ぜひマクストラプロを選んでみてください。

 

安全でおいしい水が、

日々の生活の質をグッと上げてくれるはずです!

 

※対応機種は購入前に必ず公式サイトやパッケージでご確認ください。

 

 

 

 

 

 

【保存版】甲子園2025(AERA増刊)雑誌レビュー 高校野球ファン必見の一冊!

 

今年も熱い夏がやってきました!

高校球児たちの夢の舞台「甲子園」。

その最新情報を余すことなく網羅した、

毎年恒例の大人気雑誌『甲子園2025』(AERA増刊号)が

発売されました。

今回は、この雑誌の内容や注目ポイントを

分かりやすくご紹介します。

 

雑誌『甲子園2025』とは?

毎年夏の全国高校野球選手権大会に合わせて

発売されるAERA増刊の「甲子園特集号」です。

2025年は「第107回大会」にあたり、

今年も全国の予選を勝ち抜いた

代表49校の完全戦力データを掲載しています。

 

「表紙は笑顔がまぶしい応援団女子!」

今回の表紙は、

夏の青空の下で笑顔を見せる

女子応援団員の姿が印象的。

高校野球の「青春」「全力」「一瞬の輝き」を象徴するような、

まさに夏の甲子園らしい表紙です。

 

内容紹介 「これを読めば今大会が100倍面白くなる!」

📌 出場49校の完全戦力データ

投打の主力・注目選手・戦術傾向など、

野球ファンにはたまらない情報がぎっしり!

📌 プロ注目選手インタビュー

・長嶋茂雄さん特別寄稿

・大谷翔平選手の高校野球への想い

・今朝丸裕喜、金丸憂斗、坂井遥ら

注目選手へのインタビューも!

📌 大会展望&地区予選ダイジェスト

各地方大会の激闘やドラマも丁寧に振り返りながら、

今大会の流れがしっかり読める構成。

 

「甲子園ファンだけじゃない!保護者・教育関係者にもおすすめ」

この雑誌は単なるスポーツ情報誌ではありません。

夢を追いかけ、仲間とともに努力する高校生たちの姿から、

教育の可能性、青春の尊さ

地域の絆を感じることができます。

子どもを持つ親世代や教育現場の方にも、

ぜひ手に取っていただきたい一冊です。

 

「雑誌の基本情報」

* 書名:甲子園2025 \[AERA増刊]
* 発売日:2025年8月1日頃
* 定価:600円(税込)
* 発行:朝日新聞出版

|夏が来たら、やっぱりこれ!

高校野球が始まると、なぜか胸が熱くなる。

毎年この雑誌を手に取ると、

「ああ、今年も夏が来たな」と実感します。

野球が好きな人も、そうでない人も、

今を懸命に生きる高校生の姿に心打たれるはず。

 

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昭和57年、27歳の夏 石垣島、西表島で体験した「本物の大自然」

昭和57年、27歳の夏 石垣島、西表島で体験した「本物の大自然」

 

昭和57年の夏、私は27歳。

 

当時、英会話教材の営業の仕事に携わっており、

 

その営業先として沖縄の石垣島、

 

そしてさらに奥地の西表島まで訪れるという

 

貴重な経験をしました。

 

今でこそ観光地としても有名な八重山諸島ですが、

 

当時はまだまだ手つかずの自然が色濃く残る場所。

 

私が体験したあの夏の出来事は、

 

今でもはっきりと思い出せるほど印象的です。

 

 

「小さなプロペラ機で石垣島へ」

 

那覇空港から乗り込んだのは、

 

定員50名ほどの南西航空のYS-11型プロペラ機。

 

今のような大型機とは違い、

 

機体が揺れるたびに旅の冒険心をかき立てられました。

 

到着した石垣島では、登野城(とのしろ)という地域で、

 

同僚7人と1軒家を借りて2週間滞在しました。

 

日中は英会話教材の営業で島中の家庭を訪問し、

 

夜は地元の食堂でソーキそばやゴーヤチャンプルーなど

 

沖縄の家庭料理を味わっていました。

 

営業では、子どものいる家庭を一軒一軒訪問して、

 

「これからの時代、英語は絶対に必要になります」

 

「お子さんが社会人になる頃には、

 

国際感覚が求められる仕事も増えるでしょう」

 

「子どもの吸収力が高い今のうちに、英語に慣れさせておきませんか?」

 

といった説明をしながら、丁寧に教材を案内していきました。

 

 

「営業最終日は秘境西表島へ」

 

滞在も終盤に差しかかり、残り3日となったある日、

 

私たちは西表島へ渡ることにしました。

 

石垣港から船に揺られて向かった西表島は、

 

まさに手つかずの大自然。

 

当時はレンタカーは一台もなく、

 

桟橋のすぐ近くにあるバイク屋で

 

原付バイク(50cc)を全員分レンタルしました。

 

価格はもう忘れてしまいましたが、

 

丸一日借りて島を一周する計画を立てました。

 

今でも印象に残っているのは、

 

西表島には信号機が一つもなかったということです。

 

舗装された道は島1週道路の1本しかなく、

 

バイクで走っていても、対向車に一度も出会いませんでした。

 

道路の両側にはマングローブの林がどこまでも続き、

 

空気が澄んでいて静けさが心地よく、

 

まるで別世界に迷い込んだような気分でした。

 

 

道のど真ん中に「巨大ヤシガニ」が出現!

 

そんな自然豊かな西表島で、

 

今でも忘れられない光景があります。

 

道を走っていると、遠くの路面に

 

岩のようなものが見えてきました。

 

スピードを落として近づいてみると

 

なんとそれは赤みがかった巨大なヤシガニでした!

 

「うわっ、でかい!」

 

と思わず声をあげてしまうほどの大きさでした。

 

動物園や博物館でも見たことのないような生き物が、

 

当たり前のように道路の真ん中を歩いている。

 

まさしく本物の大自然だと思いました。

 

都会では絶対に見られない光景に、

 

私はただただ圧倒されていました。

 

 

まるでオブジェのような「巨大シャコ貝の殻」

 

営業活動中、訪問先のご家庭で見かけて驚いたものもあります。

 

それは、家の庭先に

 

無造作に置かれていた巨大なシャコ貝の殻です。

 

なんと、私の身長(170cm)を超えるほどの大きさでした。

 

博物館の収集家や貝の専門家であれば、

 

目を輝かせるような貴重な品が、

 

何の飾りも説明もなくただ庭に転がされていました。

 

西表島の人々にとっては、

 

それが当たり前の風景なのかもしれませんが、

 

私にはとてつもないインパクトでした。

 

実際にそばに並んで立ってみると

 

私より大きく、高さも高かったです!

 

 

「真っ暗になる前に石垣島へ帰還」

 

営業活動を終え、日が傾き始めたころ、

 

私たちは再び船に乗って石垣島の一軒家へと戻りました。

 

西表島には街灯もほとんどなく、

 

暗くなると本当に漆黒の闇になります。

 

暗くなる前に帰るのも重要だったのです。

 

 

あの頃の西表島は「本物の秘境」だった

 

今では観光インフラも整い、

 

ホテルやツアー会社も数多く参入している西表島。

 

ですが、私が訪れた昭和57年当時の西表島は、

 

「これが本当の自然か!」と息をのむような

 

原始の姿をそのまま残した場所でした。

 

巨大なヤシガニ、シャコ貝、

 

マングローブ林、信号機のない一本道

 

すべてが非日常であり、

 

忘れられない思い出となっています。

 

 

今の若い世代に伝えたい「本物の自然体験」

 

今の若い人たちが旅行で訪れる

 

石垣島や西表島ももちろん魅力的ですが、

 

私が体験したあの昭和の自然は

 

もう味わうことができないかもしれません。

 

ですが、

 

そうした体験を思い出として語り継ぐことはできるし、

 

自然の大切さ、

 

文化の奥深さを知るきっかけにもなるはずです。

 

都会の便利さとは対極にある、西表島のあの静けさ。

 

そこには、忙しい日常では決して得られない

 

心の解放があったように思います。

 

もし、自然に癒されたい、

 

沖縄の本当の魅力を感じたいという方がいれば、

 

ぜひ八重山の島々を訪れてみるといいと思います。

 

きっと新しい発見があると思います。

 

 

「懐かしのブドウ狩りと昇仙峡昭和の社員旅行で巡った岐阜県の魅力」

 

昭和の社員旅行の思い出 31歳の時、岐阜、昇仙峡への1泊2日旅

 

社会人になって19年目、私が31歳だった時。

 

会社の恒例行事として行われた社員旅行で、

 

岐阜方面への1泊2日の社員旅行がありました。

 

今でも記憶に残っているのは、

 

昇仙峡の独特な景観やブドウ狩り、

 

温泉宿での宴会など、どこか懐かしい昭和の風景です。

 

 

昇仙峡で出会った「仙人がいそうな岩山」

 

初日に訪れたのが、

 

山梨県と岐阜県の境にある景勝地「昇仙峡」。

 

観光バスを降りてすぐ、目に飛び込んできたのは

 

空へ突き出すようにそびえる巨大な岩山「覚円峰」。

 

その鋭く尖った岩のシルエットに、

 

思わず「これは凄い」と思いました。

 

その時、隣にいた年配の先輩がひとこと。

 

「ここ、ほんとに仙人でもいそうだな」

 

その言葉に、みんなで笑いながらも納得。

 

霧がうっすら立ちこめていたこともあり、

 

まるで水墨画のような景色でした。

 

自然の中に溶け込むような静寂と、

 

どこか神聖な雰囲気を感じたのを今でも覚えています。

 

 

ブドウ狩りで感じた「本当の甘さ」

 

その後向かったのは、昇仙峡近くの観光農園。

 

ブドウ狩りは、この社員旅行の

 

「お楽しみイベント」として組み込まれていました。

 

ハサミを手に一房ずつ選びながら、

 

「どれが甘いんだろう?」と話していたところ、

 

農園のおじさんが、

 

「粒の先が尖ってるやつは、陽がよく当たってて甘いよ」

 

と教えてくれました。

 

そんな豆知識を元に、

 

夢中で選んだ巨峰をその場で食べてみたら、

 

これが本当に甘くてジューシー。

 

普段スーパーで買っていたブドウとはまるで違い、

 

「採れたてって、こんなに味が違うんだな」と驚きました。

 

一緒にいた同僚が

 

「これでワイン作りたいな」なんて言いながら、

 

いつの間にか3房も抱えていたのも、今ではいい笑い話です。

 

 

昭和の温泉旅館と大宴会

 

宿泊したのは、岐阜県内の古い温泉旅館。

 

木の香りが残る館内は、どこか懐かしい雰囲気。

 

チェックインしてすぐに浴衣に着替え、

 

まずは温泉へ直行しました。

 

にごり湯の大浴場で、

 

窓の外に広がる緑を眺めながらつかる時間は至福のひととき。

 

いつもは仕事に追われる日々でしたが、

 

その日は時計を気にせず、

 

ゆっくりと湯に身を任せることができました。

 

夕食後の宴会では、

 

上司がカラオケで「北の宿」を熱唱。

 

いわゆる昭和の宴会スタイルでした。

 

最後、畳の大広間がライブ会場のような盛り上がりに。

 

あの一体感は、まさに昭和ならではの温かさだったと思います。

 

 

翌日は郡上八幡でまったり散策

 

2日目は、郡上八幡の街並みをゆっくりと散策。

 

水の町として知られるこの地域では、

 

小川が街のあちこちを流れ、

 

水路のそばで洗い物をしている地元の方の姿も。

 

ある路地裏で、小さな甘味処を見つけ、

 

何人かで立ち寄りました。

 

「水まんじゅう」という

 

冷たい和菓子をいただいたのですが、

 

これがまた絶品。

 

ぷるぷるの透明な皮の中に、

 

甘さ控えめのこし餡が包まれていて、

 

暑い夏にはぴったりの一品でした。

 

 

岐阜の名物グルメも満喫

 

旅の締めくくりは、

 

岐阜名物の朴葉味噌定食(ほおばみそていしょく)

 

大きな朴の葉の上に

 

味噌と刻みネギ、キノコなどが乗せられ、

 

コンロの火で香ばしく焼かれていきます。

 

味噌の香りが立ち上がると、もうご飯が止まりません。

 

同僚の中には、「これ、おかわりしたい!」と

 

2杯目を注文する人もいて、

 

全員が満腹&満足で帰路につきました。

 

 

昭和の旅の魅力とは

 

今振り返ると、スマホもSNSもなかったからこそ、

 

目の前の景色や人との会話を大切にできた時代だったと思います。

 

昇仙峡の迫力ある岩山、

 

採れたてのブドウの甘さ、

 

温泉での語らい。

 

すべてが色鮮やかに記憶に残っています。

 

いつか、あの時と同じコースを旅したら

 

その時はきっと、今とはまた違う景色が見えることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【昭和60年の北海道社員旅行】札幌、小樽、ジンギスカンと笑いが絶えなかったあの秋の思い出

昭和60年、私は30歳。

 

当時勤めていた会社の社員旅行で、

 

北海道へ行く機会に恵まれました。

 

それまでは北海道へはいったことがなかったので

 

とてもうれしかったです。

 

「飛行機で社員旅行」というのもちょっとした贅沢な気分でした。

 

羽田空港を飛び立った金曜日の午前、

 

同僚たちとともにワクワクしながら

 

新千歳空港へと降り立ちました。

 

この旅は、忘れられない、

 

笑いと感動に満ちた2泊3日の思い出になりました。

 

 

「名物ジンギスカンで、隣の課長が箸を止めた理由」

 

その日の午後は名物のジンギスカン料理。

 

鉄鍋の中央でジュージュー焼かれるラム肉と野菜。

 

その香ばしい匂いに誘われて、皆が我先にと箸を動かします。

 

「うまい!!」と誰かが言えば、

 

次々におかわりの注文が飛び交う中、

 

隣の課長がふと箸を止めて 

 

「この肉、実は苦手なんだ」とポツリ。

 

みんなで「ええーっ!!」と驚きつつ

 

笑いに変えたのも、良い思い出です。

 

最後は、

 

ジンギスカンの香りがしみついたスーツを気にしつつも、

 

宿に戻るバスの中で、

 

笑いに包まれた、北海道の初日でした。

 

 

時計台は「えっこれ?」みんなが驚いた観光スポット

 

2日目は市内観光。まず向かったのは、

 

テレビやガイドブックでもおなじみの札幌時計台でした。

 

しかし、目の前に現れたその建物に、

 

全員が「えっこれ?」「小さい!」

 

写真では立派に見えていた時計台は、

 

実際にはビルに囲まれたこぢんまりとした白い建物。

 

「これがあの有名な?」と言いつつ、

 

誰かが「東京タワーよりがっかり」と言い出して、また爆笑。

 

とはいえ、それでも一応記念写真は欠かせません。

 

全員でVサインを決めた一枚は、

 

いまだにアルバムの中に残っています。

 

 

大倉山ジャンプ台で見た「恐怖の角度」

 

2日目、札幌観光の一環で訪れたのが

 

大倉山ジャンプ競技場。

 

1972年の札幌冬季オリンピックの舞台でもある場所です。

 

リフトでジャンプ台のてっぺんまで登っていくと、

 

眼下に広がる札幌の街並みと、

 

美しく色づいた木々たちの風景が見渡せました。

 

しかし、

 

足元を見ると、信じられないほどの急こう配。

 

「ここから飛び降りるのか?」と

 

身がすくむ思いで立ち尽くしました。

 

同行していた若手のS君が

 

「こっから飛ぶって、頭おかしいっすね」と

 

真顔でつぶやいたのが妙にリアルで、

 

その場がまた笑いに包まれました。

 

 

「クラーク博士像と、若手社員のあの一言」

 

次に向かったのは羊ヶ丘展望台。

 

ここでは、あの有名な

 

「Boys be ambitious(少年よ大志を抱け)」の言葉で知られる

 

クラーク博士の銅像とご対面。

 

皆で博士と同じポーズを取りながら、記念撮影。

 

そのとき、新入社員のS君が冗談交じりに

 

「課長よ昇進を目指せってとこっすかね」と言って、

 

隣にいた課長が真顔で「お前がそれを言うか」と

 

返したのが妙におかしくて、全員で腹を抱えて笑いました。

 

展望台からは札幌の街が一望でき、

 

秋晴れの空と市街地、遠くの山並みが美しく溶け合って、

 

まるで絵葉書のような光景でした。

 

最終日は小樽へ立ち寄り、懐かしい風景に浸る

 

最終日は帰路の途中に小樽へ立ち寄りました。

 

石造りの倉庫が並ぶ運河沿いを歩きながら、

 

ガラス工芸のお店をのぞいたり、

 

オルゴール館で音色を聴いたり。

 

「娘に何か買って帰ろうかな」と話す同僚に、

 

「どうせ奥さんに怒られるんだから、自分の物にしとけよ」

 

と軽口をたたきあったのも、

 

昭和の男たちらしいやり取りでした。

 

 

「昭和の旅がくれたもの」

 

この旅を通じて、普段あまり話さなかった

 

別部署の仲間とも距離が縮まりました。

 

スマホもインターネットもない時代、

 

旅先でのコミュニケーションはすべて「対面」での交流。

 

だからこそ、心の距離が一気に近づく力があったのでしょう。

 

帰りの飛行機では、疲れているはずなのに、

 

みんなどこか名残惜しそうにしていました。

 

「また行きたいな!」とつぶやく声が

 

聞こえてきたのを、今でも覚えています。

 

 

昭和60年の秋。北海道の自然とグルメ、

 

そして仲間たちとのかけがえのない時間。

 

あの旅行は、まさにバブル前夜の

 

たのしい旅だったと思います。

 

今のような便利さはなくても、

 

そこには確かに「人の温もり」がありました。

 

思い出すたびに心が温かくなる、

 

そんな北海道社員旅行の記憶。

 

若い時代のよき思い出です。

 

 

 

 

 

 

【心がほどける旅】沖縄、石垣島と宮古島で出会った景色と人々のやさしさ

数年前の春。

 

仕事が立て込んで心に余裕がなくなっていた私は、

 

ふと思い立って、沖縄の離島にひとり旅に出ることにしました。

 

行き先は、以前からいきたいと思っていた石垣島と宮古島。

 

自然と人のあたたかさに包まれたその島々で、

 

私は自分自身を取り戻すような経験をすることになりました。

 

 

石垣島に到着。最初の思い出は「おばぁのそば」

 

羽田から那覇経由で石垣空港に到着したのは午後1時過ぎ。

 

真っ先にお腹が空いて、

 

空港近くの食堂に入ったときのこと。

 

メニューを見て迷っていると、

 

白髪のおばぁが

 

「お腹すいてるでしょ?八重山そばがいいよ」と

 

優しく声をかけてくれました。

 

出てきたそばは、シンプルなのに深い味わい。

 

あとでおばぁが

 

「これは朝から煮込んだ出汁なんだよ」と

 

笑いながら教えてくれました。

 

旅の最初に、こんなやさしさに触れたことで、

 

心の緊張がスーッとほぐれていったのを覚えています。

 

 

「川平湾の風景に、しばらく言葉を失う」

 

翌朝、早起きして向かったのは川平湾(かびらわん)。

 

展望台から海を見下ろすと、

 

想像していた以上の青と緑のグラデーション。

 

まるで絵の具をこぼしたかのような海の色に、

 

しばらく声も出ませんでした。

 

グラスボートに乗ると、

 

水中にはカラフルな魚とサンゴ礁が広がっていて、

 

まるで別世界です。

 

船を操るおじさんが

 

「今日は透明度が高くて当たりだねぇ」とにこにこ話してくれました。

 

旅の偶然がくれたまるでご褒美のような時間でした。

 

 

竹富島の「星の砂」を探した午後

 

石垣港からフェリーで10分、

 

赤瓦の家並みが美しい竹富島へ日帰りで訪れました。

 

自転車を借りて白砂の道を走り、

 

カイジ浜へ向かう途中、小学生くらいの男の子が

 

「星の砂見つけられるかな?」と声をかけてきました。

 

「まだ見つけたことないんだ」と言うので、

 

一緒に砂をすくって探してみたら、

 

5分後、彼の手のひらに小さな星の形の粒が。

 

「見つけたー!!」と叫ぶ彼と、

 

その笑顔に私もつられて笑ってしまいました。

 

旅行先で偶然誰かと何かを一緒に体験する

 

それは思っていた以上に心に残る出来事でした。

 

 

「宮古島では、橋の上で車を止めたくなった」

 

石垣島を後にし、飛行機で向かったのは宮古島。

 

この島ではレンタカーを借りて島内を自由にドライブしました。

 

最も印象的だったのは、

 

全長3,540mの伊良部大橋を渡ったとき。

 

まるで海の上に浮かんでいるような感覚で、

 

景色のあまりの美しさに途中で

 

車を止めてしまいたくなるほどでした。

 

そのまま伊良部島まで行き、

 

観光客の少ない小さな入り江に腰を下ろして

 

しばらくぼーっと海を見ていました。

 

何かをしなくても、ただ海を見ているだけで満たされる

 

そんな経験は久しぶりでした。

 

本当に癒されます。

 

 

与那覇前浜ビーチで見た「宮古ブルー」

 

宮古島でのもうひとつのハイライトは、

 

与那覇前浜ビーチ。

 

白くて細かい砂、そして「宮古ブルー」と呼ばれる透明な海。

 

平日の午前中だったためか人も少なく、

 

砂浜に寝転がって波音だけを聞く時間は、

 

都会では味わえない贅沢でした。

 

地元の人が散歩していたので挨拶を交わすと、

 

「ここの海はな、天気より心の状態で色が違って見えるよ」とぽつり。

 

その言葉が妙に心に残って、

 

旅の最後の日まで何度も思い出しました。

 

 

旅の終わりに、ただ「ありがとう」と言いたくなった

 

帰りの飛行機の中で、

 

ぼんやりと窓の外を見ながら思ったのは、

 

「ああ、行ってよかったな」という気持ちでした。

 

離島には観光地としての魅力だけでなく、

 

「人のあたたかさ」や

 

「ゆっくりと流れる時間」が、

 

ちゃんと生きている気がします。

 

便利さや刺激を求めすぎていた自分が、

 

ふと立ち止まれた旅でした。

 

 

「沖縄離島は、心の荷物をそっと下ろす場所」

 

石垣島と宮古島での旅は、

 

何か特別な出来事があったわけではありません。

 

でも、その「特別なことが何もない」ことが、

 

逆に私の心を癒してくれました。

 

便利なものがないこと

 

人との距離が近いこと

 

時間がゆっくり流れること

 

そのひとつひとつが、

 

旅の思い出になって心に残っています。

 

次に旅をするなら、波照間島や西表島など、

 

さらに静かな離島にも行ってみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

羽田空港で過ごした青春の日々 「寝泊まり勤務と機内食の裏話」

私が若かりし19才から21才に働いていたのは、

 

日本の空の玄関口羽田空港でした。

 

当時の羽田空港は、今ほど国際化が進んでおらず、

 

現在のような華やかさとは少し異なる雰囲気がありました。

 

空港という場所には常に活気と緊張感があり、

 

働く側としても刺激的な環境でした。

 

特に思い出深いのは、

 

正月やお盆といった大型連休の時期にも、

 

休みなく働いていたことです。

 

家庭を持つ同僚はさすがに帰省や

 

家族との時間を優先していましたが、

 

私はまだ独身だったこともあり、

 

空港に寝泊まりしながらフル稼働で働いていました。

 

 

羽田空港の「住み込み」ライフ

 

空港内には仮眠室が用意されており、

 

大きな部屋にベッドや布団、毛布が整えられていました。

 

24時間体制の勤務に対応するため、

 

誰もがしっかり休息できるよう配慮されていたのです。

 

まさに「住み込み」で働ける環境でした。

 

さらに、社内食堂も完備されていて、

 

会社から配布される食券で朝・昼・晩と

 

三食を無料で食べることができました。

 

お風呂も施設内にあり、

 

シャワーで汗を流すこともできました。

 

寝る場所、食べる場所、お風呂、すべて揃っていたので、

 

空港内だけで1日の生活ができました。

 

出費といえば、休憩中に

 

自動販売機で購入する飲み物くらい。

 

まさに節約生活の極みであり、

 

お金を使う機会が本当にありませんでした。

 

 

「機内食の余剰という現実」

 

空港で働くなかで、特に印象的だったのが

 

「機内食」にまつわる話です。

 

飛行機では必ず余分に機内食を積む決まりがあり、

 

足りなくなると困るので、

 

乗客分よりも常に多めに用意されています。

 

そのため、毎便必ずといっていいほど

 

食事が余るのです。

 

手つかずの状態で戻ってくる

 

パンやお菓子、バター、マーガリン。

 

さらには、

 

アルミホイルで丁寧に包まれた

 

ステーキやハンバーグなどのメインディッシュまで。

 

中にはそれらを自宅に持ち帰るスタッフもいました。

 

最初の頃は、

 

私自身もありがたく頂戴していました。

 

おいしいですし、何より無料。

 

ですが、次第に飽きがきてしまい、

 

気がつけば誰も持って帰らなくなっていたのです。

 

毎日のように大量に運ばれてくる食事と向き合っていると、

 

ありがたみよりも

 

処理の大変さが勝ってしまいます。

 

結局、大量の食器や余った食材は、

 

どんどん処分していくしかなく、

 

まさに「食べ物の循環の裏側」を

 

知る機会でもありました。

 

 

 

「特別手当と働くモチベーション」

 

長期休暇中に働くと、

 

特別手当が支給されました。

 

これがかなりの金額で、

 

働くモチベーションにもつながっていました。

 

私は正月も休まず働いていたため、

 

自分の成人式の日にも仕事をしており、

 

式には参加しませんでした。

 

ですが、自分で選んだ道ですし、後悔はありません。

 

生活の大半を空港内で過ごし、

 

ひたすら仕事に打ち込んだ日々。

 

今振り返ってみると、

 

まるで合宿生活のようでもあり、

 

仲間たちとの一体感や

 

共同体としての意識も強く感じられました。

 

 

「シフト勤務と自分のリズム」

 

空港の業務は24時間体制で回っており、

 

シフトは三交代制でした。

 

* 午前8時〜午後5時

* 午後1時〜午後10時

* 午後10時〜翌朝8時

 

私はもともと朝が苦手だったこともあり、

 

午後1時から始まる

 

中間シフトが身体に合っていました。

 

学生時代から

 

寝坊グセが抜けなかった私にとっては、

 

このスケジュールが

 

ありがたかったのをよく覚えています。

 

 

「今だからこそ伝えたいこと」

 

今の羽田空港は国際化が進み、

 

施設も一新されて近代的な印象を受けますが、

 

私が働いていた時代の羽田空港には、

 

どこか人間味がありました。

 

泥くさくも、リアルで、

 

生きた職場という感じがしていました。

 

空港は単なる交通拠点ではなく、

 

働く人々の人生の舞台でもあります。

 

私はそこで、社会人としての基礎を学び、

 

人としての成長を実感できたように思います。

 

羽田空港での寝泊まり勤務は、

 

決して楽な仕事ではありませんでしたが、

 

今振り返れば貴重な人生の財産です。

 

お金をかけずに暮らせる環境、

 

チームとしての結束感、

 

そして空の下で働く誇り

 

あの頃の経験は、今でも心に深く残っています。

 

忙しない日常の中で、

 

ふとあの頃の羽田空港を思い出すと、

 

胸が熱くなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の羽田空港はこうだった!昭和時代に空港で働いたリアルな体験記

 

【羽田空港の裏側で働いた日々】昭和の思い出と空港の進化

 

令和のいま、羽田空港は日本を代表する

 

国際空港として多くの人に利用されています。

 

国内線はもちろん、

 

海外への玄関口としても重要な役割を果たし、

 

数多くの国際便が発着しています。

 

しかし、

 

現在のように洗練された巨大ハブ空港になる以前、

 

羽田空港にはもう少し素朴で

 

人間味あふれる時代がありました。

 

私はその「古き良き羽田空港」で、

 

約2年間働いていた経験があります。

 

まだ成田空港ができて間もない頃、

 

今回はその懐かしい記憶を辿りながら、

 

当時の空港の様子や仕事の内容をご紹介します。

 

 

昭和の羽田空港「国際線も国内線も集まっていた時代」

 

今では、国際便の多くは成田空港と分担され、

 

羽田空港は主に国内線のイメージが強いかもしれません。

 

しかし昭和の時代、羽田空港は

 

国内線・国際線ともに一手に担う大空港でした。

 

成田空港が開港したのは昭和53年(1978年)のことですが、

 

それまでの羽田空港には

 

アメリカン航空、アリタリア航空、

 

ルフトハンザ航空、ロシア(旧ソ連)の航空会社など、

 

世界中から飛行機が飛来していたのです。

 

 

私の仕事は「機内食の食器洗浄」

 

私は19歳から21歳までの約2年間、

 

羽田空港でアルバイトをしていました。

 

担当していたのは、

 

飛行機内で乗客に提供された

 

機内食の食器を洗浄する仕事です。

 

仕事場には業務用の大型洗浄機があり、

 

幅は2メートル、長さはおよそ20メートルほど。

 

ベルトコンベア式の洗浄機で、

 

トレーやキャサロール、

 

コーヒーカップ、スプーン、フォーク、皿など、

 

あらゆる食器を次々と投入していきました。

 

洗浄機に入れると、自動的に

 

洗い、すすぎ・乾燥までやってくれるため、

 

一見すると簡単な作業のように思われるかもしれません。

 

しかし、実際にはかなりの重労働でした。

 

 

「次から次へと届く大量の食器」

 

当時はジャンボジェット機が主流で、

 

1機に乗っている乗客の数は数百人規模。

つまり、

1便あたり数百セットの食器が戻ってくるのです。

 

そのため、食器洗浄の現場は

 

24時間体制の3交代制で運営されており、

 

常に人が働いいていました。

 

とくに夜間便や国際便が集中する時間帯は忙しく、

 

コンベアから流れてくる食器を

 

いかに滞らせず処理するかが勝負でした。

 

大量の使用済み食器は、ときには臭いも気になり、

 

手作業で仕分けたり、大きなトレーを持ち上げたりと、

 

体力勝負の日々でした。

 

 

「羽田空港の国際色豊かな時代」

 

羽田空港には、日本国内各地の航空便だけでなく、

 

アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど、

 

世界中の航空会社が乗り入れていました。

 

アメリカン航空、アリタリア航空、

 

ルフトハンザ航空、そしてロシアのアエロフロートなど、

 

多種多様な飛行機が飛来し、

 

機内食もそれぞれ異なっていました。

 

機内食のスタイルも国によって違いがあり、

 

例えば、

 

欧米の航空会社は金属製のカトラリーが多く、

 

日本の航空会社はプラスチック製だったり、

 

皿の素材が異なったり。

 

そんな違いを感じながらの仕事は、

 

単調ながらも興味深い面もありました。

 

 

空港で働いたからこそ見えた「空の裏側」

 

空港といえば、

 

旅立ちのワクワクや帰省のぬくもりなど、

 

華やかなイメージがありますが

 

しかしその裏側には、

 

24時間体制で動く無数の人々の努力があるのです。

 

私が働いていた食器洗浄の現場もその一つ。

 

乗客にとっては何気なく受け取る機内食のトレーも、

 

それを支える作業があってこそ提供されていたのだと、

 

今になってしみじみと感じます。

 

 

「平成以降、羽田空港は大きく進化した」

 

平成に入ってからの羽田空港は、

 

施設も大きくなり、滑走路も増設され、

 

ターミナルも近代化されました。

 

国際便も再び多く乗り入れるようになり、

 

再び世界と日本を結ぶ重要な空港となっています。

 

現在の羽田空港の姿を見るたびに、

 

「あの頃の古い羽田空港で汗を流していたこと」

 

を思い出します。

 

 

電車の京急(当時は京浜急行)が

 

直接羽田空港内のターミナルまで乗り入れしたのも

 

平成になってからです。

 

それまでは、はるか手前の

 

海老取川の手前が終点の駅でしたので、

 

京浜急行を利用していた乗客は皆、

 

タクシーかバスで

 

羽田空港内のターミナルまで移動していました。

 

二度手間で、とても不便でしたので

 

遠回りでもJR(当時は国鉄)の浜松町駅で

 

モノレールに乗っていく人が多かったですね。

 

 

そして、あの経験が

 

自分にとってかけがえのない

 

財産になっていると実感します。

 

 

「羽田空港の進化と、懐かしき日々」

 

現在の羽田空港しか知らない世代の方々にとっては、

 

昭和の羽田空港の姿は想像しづらいかもしれません。

 

しかし、あの場所にも人の営みがあり、

 

たくさんの想いと努力が詰まっていました。

 

私にとって羽田空港は、

 

単なる空の玄関口ではなく、

 

自分の青春の一部でもあります。

 

これから羽田空港を訪れる機会があれば、

 

ぜひそんな「裏側で働く人たちの存在」にも

 

思いを馳せてみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20代の青春を彩った「新宿の純喫茶」と深夜の過ごし方

 

20代の青春を彩った「新宿の純喫茶」と深夜の過ごし方

 

20代の頃、私は本当に喫茶店が大好きでした。

 

1日3回、多い時には5回も喫茶店に通っていたほどです。

 

朝の出勤前、昼休み、仕事終わりの夜と、

 

平日でも最低3回は立ち寄っていました。

 

休日ともなれば、喫茶店はまるで

 

もう一つの自分の部屋のような存在でした。

 

 

「朝寝坊から始まる、休日の喫茶店ライフ」

 

休みの日は、まず朝10時頃までぐっすりと寝て、

 

そこからのんびりと支度して

 

喫茶店へ向かうのが定番の流れ。

 

お気に入りの席に座って、

 

コーヒーを飲みながら新聞や雑誌を読む。

 

何とも贅沢な時間が、そこには流れていました。

 

店内にはタバコの煙とコーヒーの香りが入り混じり、

 

クラシックやジャズが静かに流れている。

 

そんな空間で過ごすひとときは、

 

日常の喧騒を忘れさせてくれるものでした。

 

 

「新宿の喫茶店は、友達との待ち合わせ場所」

 

友達と会うときの集合場所も、やっぱり喫茶店。

 

特に新宿の喫茶店をよく利用していました。

 

私は大森、友達は多摩エリアに住んでいたので、

 

新宿はお互いにとって都合の良い中間地点だったのです。

 

新宿には喫茶店だけでなく、

 

映画館、百貨店、本屋、レコード屋と、

 

何でも揃っていて退屈しません。

 

待ち合わせして、まず喫茶店で数時間おしゃべり。

 

話が盛り上がりすぎて、

 

気づけば2時間、3時間があっという間に

 

過ぎていることもよくありました。

 

 

「飲みよりも、また喫茶店」

 

おしゃべりに一区切りついたら、今度は一緒に食事。

 

食事後にまた別の喫茶店へ移動して、

 

さらに数時間語り合う

 

そんな時間の使い方が当たり前でした。

 

20代という時期は、

 

好奇心旺盛でエネルギーに満ちあふれていて、

 

話題も尽きることがありませんでした。

 

特に土曜日の夜に会うと、

 

次の日は日曜日。仕事のことを気にせず、

 

心ゆくまで喋れるという安心感もあり、

 

ついつい長居してしまうのです。

 

 

深夜の新宿と「深夜喫茶」という存在

 

当時は、深夜まで営業している喫茶店、

 

いわゆる「深夜喫茶」が新宿に多く点在していました。

 

深夜0時を過ぎても営業している店は貴重で、

 

終電を逃してしまっても、

 

深夜喫茶に入れば朝まで時間をつぶせたのです。

 

もちろん、深夜料金は発生しましたが、

 

それでも手軽で静かに過ごせる場所として、

 

多くの若者に利用されていました。

 

今のようにカラオケボックスや

 

ネットカフェ、24時間営業のチェーン店がなかった時代です。

 

夜の新宿での選択肢といえば、居酒屋か深夜喫茶。

 

多くの人が後者を選んでいたのは、

 

財布にやさしく、静かに語れる

 

空間だったからかもしれません。

 

 

「今では懐かしい、あの頃の外食事情」

 

当時は、今のように

 

23時間営業のファーストフード店は

 

ほとんどありませんでした。

 

マクドナルドやケンタッキー、

 

ロッテリア、ミスタードーナツなども、

 

夜10時か11時には閉店。

 

ファーストキッチンはまだ存在せず、

 

ジョナサンやガストも普及していない時代です。

 

ロイヤルホストやデニーズは一部にありましたが、

 

数が少なく、

 

探さなければ見つからないものでした。

 

今のように

 

「とりあえずファミレスで時間をつぶそう」という発想は、

 

当時にはありませんでした。

 

 

「カラオケ文化が生まれる前の歌の場所」

 

カラオケボックスが登場する前、

 

若者たちが歌を楽しむ場所といえば

 

「歌声喫茶」や

 

「レーザーカラオケのあるスナック」でした。

 

スナックには、小さなステージや

 

スタンドマイクが用意されており、

 

知らない客の前で一人ずつ歌うというスタイル。

 

今のように仲間内だけで盛り上がる

 

個室カラオケは存在せず、

 

「歌う=知らない人たちの前で歌う」

 

ことを意味していました。

 

人前で歌うことに抵抗がある人は、

 

歌声喫茶でみんなと一緒に

 

合唱するスタイルを選ぶこともありました。

 

あの頃の「喫茶店文化」は、私の青春そのもの

 

振り返ってみると、喫茶店は単なる飲食店ではなく、

 

私にとっては心のよりどころのような存在でした。

 

友達との再会の場所であり、

 

自分だけの読書時間の場所であり、

 

深夜の居場所でもあったのです。

 

今ではコンビニやチェーンカフェ、

 

スマホやSNSといった新しいライフスタイルが主流ですが、

 

昭和から平成初期にかけての「喫茶店文化」には、

 

時代を超えて共感できる温かさがあります。

 

機会があれば、もう一度あの頃のように、

 

純喫茶でゆっくりと流れる時間を楽しんでみたい

 

そんな気持ちにさせてくれる、懐かしい思い出です。