昭和57年、27歳の夏 石垣島、西表島で体験した「本物の大自然」

昭和57年、27歳の夏 石垣島、西表島で体験した「本物の大自然」

 

昭和57年の夏、私は27歳。

 

当時、英会話教材の営業の仕事に携わっており、

 

その営業先として沖縄の石垣島、

 

そしてさらに奥地の西表島まで訪れるという

 

貴重な経験をしました。

 

今でこそ観光地としても有名な八重山諸島ですが、

 

当時はまだまだ手つかずの自然が色濃く残る場所。

 

私が体験したあの夏の出来事は、

 

今でもはっきりと思い出せるほど印象的です。

 

 

「小さなプロペラ機で石垣島へ」

 

那覇空港から乗り込んだのは、

 

定員50名ほどの南西航空のYS-11型プロペラ機。

 

今のような大型機とは違い、

 

機体が揺れるたびに旅の冒険心をかき立てられました。

 

到着した石垣島では、登野城(とのしろ)という地域で、

 

同僚7人と1軒家を借りて2週間滞在しました。

 

日中は英会話教材の営業で島中の家庭を訪問し、

 

夜は地元の食堂でソーキそばやゴーヤチャンプルーなど

 

沖縄の家庭料理を味わっていました。

 

営業では、子どものいる家庭を一軒一軒訪問して、

 

「これからの時代、英語は絶対に必要になります」

 

「お子さんが社会人になる頃には、

 

国際感覚が求められる仕事も増えるでしょう」

 

「子どもの吸収力が高い今のうちに、英語に慣れさせておきませんか?」

 

といった説明をしながら、丁寧に教材を案内していきました。

 

 

「営業最終日は秘境西表島へ」

 

滞在も終盤に差しかかり、残り3日となったある日、

 

私たちは西表島へ渡ることにしました。

 

石垣港から船に揺られて向かった西表島は、

 

まさに手つかずの大自然。

 

当時はレンタカーは一台もなく、

 

桟橋のすぐ近くにあるバイク屋で

 

原付バイク(50cc)を全員分レンタルしました。

 

価格はもう忘れてしまいましたが、

 

丸一日借りて島を一周する計画を立てました。

 

今でも印象に残っているのは、

 

西表島には信号機が一つもなかったということです。

 

舗装された道は島1週道路の1本しかなく、

 

バイクで走っていても、対向車に一度も出会いませんでした。

 

道路の両側にはマングローブの林がどこまでも続き、

 

空気が澄んでいて静けさが心地よく、

 

まるで別世界に迷い込んだような気分でした。

 

 

道のど真ん中に「巨大ヤシガニ」が出現!

 

そんな自然豊かな西表島で、

 

今でも忘れられない光景があります。

 

道を走っていると、遠くの路面に

 

岩のようなものが見えてきました。

 

スピードを落として近づいてみると

 

なんとそれは赤みがかった巨大なヤシガニでした!

 

「うわっ、でかい!」

 

と思わず声をあげてしまうほどの大きさでした。

 

動物園や博物館でも見たことのないような生き物が、

 

当たり前のように道路の真ん中を歩いている。

 

まさしく本物の大自然だと思いました。

 

都会では絶対に見られない光景に、

 

私はただただ圧倒されていました。

 

 

まるでオブジェのような「巨大シャコ貝の殻」

 

営業活動中、訪問先のご家庭で見かけて驚いたものもあります。

 

それは、家の庭先に

 

無造作に置かれていた巨大なシャコ貝の殻です。

 

なんと、私の身長(170cm)を超えるほどの大きさでした。

 

博物館の収集家や貝の専門家であれば、

 

目を輝かせるような貴重な品が、

 

何の飾りも説明もなくただ庭に転がされていました。

 

西表島の人々にとっては、

 

それが当たり前の風景なのかもしれませんが、

 

私にはとてつもないインパクトでした。

 

実際にそばに並んで立ってみると

 

私より大きく、高さも高かったです!

 

 

「真っ暗になる前に石垣島へ帰還」

 

営業活動を終え、日が傾き始めたころ、

 

私たちは再び船に乗って石垣島の一軒家へと戻りました。

 

西表島には街灯もほとんどなく、

 

暗くなると本当に漆黒の闇になります。

 

暗くなる前に帰るのも重要だったのです。

 

 

あの頃の西表島は「本物の秘境」だった

 

今では観光インフラも整い、

 

ホテルやツアー会社も数多く参入している西表島。

 

ですが、私が訪れた昭和57年当時の西表島は、

 

「これが本当の自然か!」と息をのむような

 

原始の姿をそのまま残した場所でした。

 

巨大なヤシガニ、シャコ貝、

 

マングローブ林、信号機のない一本道

 

すべてが非日常であり、

 

忘れられない思い出となっています。

 

 

今の若い世代に伝えたい「本物の自然体験」

 

今の若い人たちが旅行で訪れる

 

石垣島や西表島ももちろん魅力的ですが、

 

私が体験したあの昭和の自然は

 

もう味わうことができないかもしれません。

 

ですが、

 

そうした体験を思い出として語り継ぐことはできるし、

 

自然の大切さ、

 

文化の奥深さを知るきっかけにもなるはずです。

 

都会の便利さとは対極にある、西表島のあの静けさ。

 

そこには、忙しい日常では決して得られない

 

心の解放があったように思います。

 

もし、自然に癒されたい、

 

沖縄の本当の魅力を感じたいという方がいれば、

 

ぜひ八重山の島々を訪れてみるといいと思います。

 

きっと新しい発見があると思います。

 

 

「懐かしのブドウ狩りと昇仙峡昭和の社員旅行で巡った岐阜県の魅力」

 

昭和の社員旅行の思い出 31歳の時、岐阜、昇仙峡への1泊2日旅

 

社会人になって19年目、私が31歳だった時。

 

会社の恒例行事として行われた社員旅行で、

 

岐阜方面への1泊2日の社員旅行がありました。

 

今でも記憶に残っているのは、

 

昇仙峡の独特な景観やブドウ狩り、

 

温泉宿での宴会など、どこか懐かしい昭和の風景です。

 

 

昇仙峡で出会った「仙人がいそうな岩山」

 

初日に訪れたのが、

 

山梨県と岐阜県の境にある景勝地「昇仙峡」。

 

観光バスを降りてすぐ、目に飛び込んできたのは

 

空へ突き出すようにそびえる巨大な岩山「覚円峰」。

 

その鋭く尖った岩のシルエットに、

 

思わず「これは凄い」と思いました。

 

その時、隣にいた年配の先輩がひとこと。

 

「ここ、ほんとに仙人でもいそうだな」

 

その言葉に、みんなで笑いながらも納得。

 

霧がうっすら立ちこめていたこともあり、

 

まるで水墨画のような景色でした。

 

自然の中に溶け込むような静寂と、

 

どこか神聖な雰囲気を感じたのを今でも覚えています。

 

 

ブドウ狩りで感じた「本当の甘さ」

 

その後向かったのは、昇仙峡近くの観光農園。

 

ブドウ狩りは、この社員旅行の

 

「お楽しみイベント」として組み込まれていました。

 

ハサミを手に一房ずつ選びながら、

 

「どれが甘いんだろう?」と話していたところ、

 

農園のおじさんが、

 

「粒の先が尖ってるやつは、陽がよく当たってて甘いよ」

 

と教えてくれました。

 

そんな豆知識を元に、

 

夢中で選んだ巨峰をその場で食べてみたら、

 

これが本当に甘くてジューシー。

 

普段スーパーで買っていたブドウとはまるで違い、

 

「採れたてって、こんなに味が違うんだな」と驚きました。

 

一緒にいた同僚が

 

「これでワイン作りたいな」なんて言いながら、

 

いつの間にか3房も抱えていたのも、今ではいい笑い話です。

 

 

昭和の温泉旅館と大宴会

 

宿泊したのは、岐阜県内の古い温泉旅館。

 

木の香りが残る館内は、どこか懐かしい雰囲気。

 

チェックインしてすぐに浴衣に着替え、

 

まずは温泉へ直行しました。

 

にごり湯の大浴場で、

 

窓の外に広がる緑を眺めながらつかる時間は至福のひととき。

 

いつもは仕事に追われる日々でしたが、

 

その日は時計を気にせず、

 

ゆっくりと湯に身を任せることができました。

 

夕食後の宴会では、

 

上司がカラオケで「北の宿」を熱唱。

 

いわゆる昭和の宴会スタイルでした。

 

最後、畳の大広間がライブ会場のような盛り上がりに。

 

あの一体感は、まさに昭和ならではの温かさだったと思います。

 

 

翌日は郡上八幡でまったり散策

 

2日目は、郡上八幡の街並みをゆっくりと散策。

 

水の町として知られるこの地域では、

 

小川が街のあちこちを流れ、

 

水路のそばで洗い物をしている地元の方の姿も。

 

ある路地裏で、小さな甘味処を見つけ、

 

何人かで立ち寄りました。

 

「水まんじゅう」という

 

冷たい和菓子をいただいたのですが、

 

これがまた絶品。

 

ぷるぷるの透明な皮の中に、

 

甘さ控えめのこし餡が包まれていて、

 

暑い夏にはぴったりの一品でした。

 

 

岐阜の名物グルメも満喫

 

旅の締めくくりは、

 

岐阜名物の朴葉味噌定食(ほおばみそていしょく)

 

大きな朴の葉の上に

 

味噌と刻みネギ、キノコなどが乗せられ、

 

コンロの火で香ばしく焼かれていきます。

 

味噌の香りが立ち上がると、もうご飯が止まりません。

 

同僚の中には、「これ、おかわりしたい!」と

 

2杯目を注文する人もいて、

 

全員が満腹&満足で帰路につきました。

 

 

昭和の旅の魅力とは

 

今振り返ると、スマホもSNSもなかったからこそ、

 

目の前の景色や人との会話を大切にできた時代だったと思います。

 

昇仙峡の迫力ある岩山、

 

採れたてのブドウの甘さ、

 

温泉での語らい。

 

すべてが色鮮やかに記憶に残っています。

 

いつか、あの時と同じコースを旅したら

 

その時はきっと、今とはまた違う景色が見えることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【昭和60年の北海道社員旅行】札幌、小樽、ジンギスカンと笑いが絶えなかったあの秋の思い出

昭和60年、私は30歳。

 

当時勤めていた会社の社員旅行で、

 

北海道へ行く機会に恵まれました。

 

それまでは北海道へはいったことがなかったので

 

とてもうれしかったです。

 

「飛行機で社員旅行」というのもちょっとした贅沢な気分でした。

 

羽田空港を飛び立った金曜日の午前、

 

同僚たちとともにワクワクしながら

 

新千歳空港へと降り立ちました。

 

この旅は、忘れられない、

 

笑いと感動に満ちた2泊3日の思い出になりました。

 

 

「名物ジンギスカンで、隣の課長が箸を止めた理由」

 

その日の午後は名物のジンギスカン料理。

 

鉄鍋の中央でジュージュー焼かれるラム肉と野菜。

 

その香ばしい匂いに誘われて、皆が我先にと箸を動かします。

 

「うまい!!」と誰かが言えば、

 

次々におかわりの注文が飛び交う中、

 

隣の課長がふと箸を止めて 

 

「この肉、実は苦手なんだ」とポツリ。

 

みんなで「ええーっ!!」と驚きつつ

 

笑いに変えたのも、良い思い出です。

 

最後は、

 

ジンギスカンの香りがしみついたスーツを気にしつつも、

 

宿に戻るバスの中で、

 

笑いに包まれた、北海道の初日でした。

 

 

時計台は「えっこれ?」みんなが驚いた観光スポット

 

2日目は市内観光。まず向かったのは、

 

テレビやガイドブックでもおなじみの札幌時計台でした。

 

しかし、目の前に現れたその建物に、

 

全員が「えっこれ?」「小さい!」

 

写真では立派に見えていた時計台は、

 

実際にはビルに囲まれたこぢんまりとした白い建物。

 

「これがあの有名な?」と言いつつ、

 

誰かが「東京タワーよりがっかり」と言い出して、また爆笑。

 

とはいえ、それでも一応記念写真は欠かせません。

 

全員でVサインを決めた一枚は、

 

いまだにアルバムの中に残っています。

 

 

大倉山ジャンプ台で見た「恐怖の角度」

 

2日目、札幌観光の一環で訪れたのが

 

大倉山ジャンプ競技場。

 

1972年の札幌冬季オリンピックの舞台でもある場所です。

 

リフトでジャンプ台のてっぺんまで登っていくと、

 

眼下に広がる札幌の街並みと、

 

美しく色づいた木々たちの風景が見渡せました。

 

しかし、

 

足元を見ると、信じられないほどの急こう配。

 

「ここから飛び降りるのか?」と

 

身がすくむ思いで立ち尽くしました。

 

同行していた若手のS君が

 

「こっから飛ぶって、頭おかしいっすね」と

 

真顔でつぶやいたのが妙にリアルで、

 

その場がまた笑いに包まれました。

 

 

「クラーク博士像と、若手社員のあの一言」

 

次に向かったのは羊ヶ丘展望台。

 

ここでは、あの有名な

 

「Boys be ambitious(少年よ大志を抱け)」の言葉で知られる

 

クラーク博士の銅像とご対面。

 

皆で博士と同じポーズを取りながら、記念撮影。

 

そのとき、新入社員のS君が冗談交じりに

 

「課長よ昇進を目指せってとこっすかね」と言って、

 

隣にいた課長が真顔で「お前がそれを言うか」と

 

返したのが妙におかしくて、全員で腹を抱えて笑いました。

 

展望台からは札幌の街が一望でき、

 

秋晴れの空と市街地、遠くの山並みが美しく溶け合って、

 

まるで絵葉書のような光景でした。

 

最終日は小樽へ立ち寄り、懐かしい風景に浸る

 

最終日は帰路の途中に小樽へ立ち寄りました。

 

石造りの倉庫が並ぶ運河沿いを歩きながら、

 

ガラス工芸のお店をのぞいたり、

 

オルゴール館で音色を聴いたり。

 

「娘に何か買って帰ろうかな」と話す同僚に、

 

「どうせ奥さんに怒られるんだから、自分の物にしとけよ」

 

と軽口をたたきあったのも、

 

昭和の男たちらしいやり取りでした。

 

 

「昭和の旅がくれたもの」

 

この旅を通じて、普段あまり話さなかった

 

別部署の仲間とも距離が縮まりました。

 

スマホもインターネットもない時代、

 

旅先でのコミュニケーションはすべて「対面」での交流。

 

だからこそ、心の距離が一気に近づく力があったのでしょう。

 

帰りの飛行機では、疲れているはずなのに、

 

みんなどこか名残惜しそうにしていました。

 

「また行きたいな!」とつぶやく声が

 

聞こえてきたのを、今でも覚えています。

 

 

昭和60年の秋。北海道の自然とグルメ、

 

そして仲間たちとのかけがえのない時間。

 

あの旅行は、まさにバブル前夜の

 

たのしい旅だったと思います。

 

今のような便利さはなくても、

 

そこには確かに「人の温もり」がありました。

 

思い出すたびに心が温かくなる、

 

そんな北海道社員旅行の記憶。

 

若い時代のよき思い出です。

 

 

 

 

 

 

【心がほどける旅】沖縄、石垣島と宮古島で出会った景色と人々のやさしさ

数年前の春。

 

仕事が立て込んで心に余裕がなくなっていた私は、

 

ふと思い立って、沖縄の離島にひとり旅に出ることにしました。

 

行き先は、以前からいきたいと思っていた石垣島と宮古島。

 

自然と人のあたたかさに包まれたその島々で、

 

私は自分自身を取り戻すような経験をすることになりました。

 

 

石垣島に到着。最初の思い出は「おばぁのそば」

 

羽田から那覇経由で石垣空港に到着したのは午後1時過ぎ。

 

真っ先にお腹が空いて、

 

空港近くの食堂に入ったときのこと。

 

メニューを見て迷っていると、

 

白髪のおばぁが

 

「お腹すいてるでしょ?八重山そばがいいよ」と

 

優しく声をかけてくれました。

 

出てきたそばは、シンプルなのに深い味わい。

 

あとでおばぁが

 

「これは朝から煮込んだ出汁なんだよ」と

 

笑いながら教えてくれました。

 

旅の最初に、こんなやさしさに触れたことで、

 

心の緊張がスーッとほぐれていったのを覚えています。

 

 

「川平湾の風景に、しばらく言葉を失う」

 

翌朝、早起きして向かったのは川平湾(かびらわん)。

 

展望台から海を見下ろすと、

 

想像していた以上の青と緑のグラデーション。

 

まるで絵の具をこぼしたかのような海の色に、

 

しばらく声も出ませんでした。

 

グラスボートに乗ると、

 

水中にはカラフルな魚とサンゴ礁が広がっていて、

 

まるで別世界です。

 

船を操るおじさんが

 

「今日は透明度が高くて当たりだねぇ」とにこにこ話してくれました。

 

旅の偶然がくれたまるでご褒美のような時間でした。

 

 

竹富島の「星の砂」を探した午後

 

石垣港からフェリーで10分、

 

赤瓦の家並みが美しい竹富島へ日帰りで訪れました。

 

自転車を借りて白砂の道を走り、

 

カイジ浜へ向かう途中、小学生くらいの男の子が

 

「星の砂見つけられるかな?」と声をかけてきました。

 

「まだ見つけたことないんだ」と言うので、

 

一緒に砂をすくって探してみたら、

 

5分後、彼の手のひらに小さな星の形の粒が。

 

「見つけたー!!」と叫ぶ彼と、

 

その笑顔に私もつられて笑ってしまいました。

 

旅行先で偶然誰かと何かを一緒に体験する

 

それは思っていた以上に心に残る出来事でした。

 

 

「宮古島では、橋の上で車を止めたくなった」

 

石垣島を後にし、飛行機で向かったのは宮古島。

 

この島ではレンタカーを借りて島内を自由にドライブしました。

 

最も印象的だったのは、

 

全長3,540mの伊良部大橋を渡ったとき。

 

まるで海の上に浮かんでいるような感覚で、

 

景色のあまりの美しさに途中で

 

車を止めてしまいたくなるほどでした。

 

そのまま伊良部島まで行き、

 

観光客の少ない小さな入り江に腰を下ろして

 

しばらくぼーっと海を見ていました。

 

何かをしなくても、ただ海を見ているだけで満たされる

 

そんな経験は久しぶりでした。

 

本当に癒されます。

 

 

与那覇前浜ビーチで見た「宮古ブルー」

 

宮古島でのもうひとつのハイライトは、

 

与那覇前浜ビーチ。

 

白くて細かい砂、そして「宮古ブルー」と呼ばれる透明な海。

 

平日の午前中だったためか人も少なく、

 

砂浜に寝転がって波音だけを聞く時間は、

 

都会では味わえない贅沢でした。

 

地元の人が散歩していたので挨拶を交わすと、

 

「ここの海はな、天気より心の状態で色が違って見えるよ」とぽつり。

 

その言葉が妙に心に残って、

 

旅の最後の日まで何度も思い出しました。

 

 

旅の終わりに、ただ「ありがとう」と言いたくなった

 

帰りの飛行機の中で、

 

ぼんやりと窓の外を見ながら思ったのは、

 

「ああ、行ってよかったな」という気持ちでした。

 

離島には観光地としての魅力だけでなく、

 

「人のあたたかさ」や

 

「ゆっくりと流れる時間」が、

 

ちゃんと生きている気がします。

 

便利さや刺激を求めすぎていた自分が、

 

ふと立ち止まれた旅でした。

 

 

「沖縄離島は、心の荷物をそっと下ろす場所」

 

石垣島と宮古島での旅は、

 

何か特別な出来事があったわけではありません。

 

でも、その「特別なことが何もない」ことが、

 

逆に私の心を癒してくれました。

 

便利なものがないこと

 

人との距離が近いこと

 

時間がゆっくり流れること

 

そのひとつひとつが、

 

旅の思い出になって心に残っています。

 

次に旅をするなら、波照間島や西表島など、

 

さらに静かな離島にも行ってみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

羽田空港で過ごした青春の日々 「寝泊まり勤務と機内食の裏話」

私が若かりし19才から21才に働いていたのは、

 

日本の空の玄関口羽田空港でした。

 

当時の羽田空港は、今ほど国際化が進んでおらず、

 

現在のような華やかさとは少し異なる雰囲気がありました。

 

空港という場所には常に活気と緊張感があり、

 

働く側としても刺激的な環境でした。

 

特に思い出深いのは、

 

正月やお盆といった大型連休の時期にも、

 

休みなく働いていたことです。

 

家庭を持つ同僚はさすがに帰省や

 

家族との時間を優先していましたが、

 

私はまだ独身だったこともあり、

 

空港に寝泊まりしながらフル稼働で働いていました。

 

 

羽田空港の「住み込み」ライフ

 

空港内には仮眠室が用意されており、

 

大きな部屋にベッドや布団、毛布が整えられていました。

 

24時間体制の勤務に対応するため、

 

誰もがしっかり休息できるよう配慮されていたのです。

 

まさに「住み込み」で働ける環境でした。

 

さらに、社内食堂も完備されていて、

 

会社から配布される食券で朝・昼・晩と

 

三食を無料で食べることができました。

 

お風呂も施設内にあり、

 

シャワーで汗を流すこともできました。

 

寝る場所、食べる場所、お風呂、すべて揃っていたので、

 

空港内だけで1日の生活ができました。

 

出費といえば、休憩中に

 

自動販売機で購入する飲み物くらい。

 

まさに節約生活の極みであり、

 

お金を使う機会が本当にありませんでした。

 

 

「機内食の余剰という現実」

 

空港で働くなかで、特に印象的だったのが

 

「機内食」にまつわる話です。

 

飛行機では必ず余分に機内食を積む決まりがあり、

 

足りなくなると困るので、

 

乗客分よりも常に多めに用意されています。

 

そのため、毎便必ずといっていいほど

 

食事が余るのです。

 

手つかずの状態で戻ってくる

 

パンやお菓子、バター、マーガリン。

 

さらには、

 

アルミホイルで丁寧に包まれた

 

ステーキやハンバーグなどのメインディッシュまで。

 

中にはそれらを自宅に持ち帰るスタッフもいました。

 

最初の頃は、

 

私自身もありがたく頂戴していました。

 

おいしいですし、何より無料。

 

ですが、次第に飽きがきてしまい、

 

気がつけば誰も持って帰らなくなっていたのです。

 

毎日のように大量に運ばれてくる食事と向き合っていると、

 

ありがたみよりも

 

処理の大変さが勝ってしまいます。

 

結局、大量の食器や余った食材は、

 

どんどん処分していくしかなく、

 

まさに「食べ物の循環の裏側」を

 

知る機会でもありました。

 

 

 

「特別手当と働くモチベーション」

 

長期休暇中に働くと、

 

特別手当が支給されました。

 

これがかなりの金額で、

 

働くモチベーションにもつながっていました。

 

私は正月も休まず働いていたため、

 

自分の成人式の日にも仕事をしており、

 

式には参加しませんでした。

 

ですが、自分で選んだ道ですし、後悔はありません。

 

生活の大半を空港内で過ごし、

 

ひたすら仕事に打ち込んだ日々。

 

今振り返ってみると、

 

まるで合宿生活のようでもあり、

 

仲間たちとの一体感や

 

共同体としての意識も強く感じられました。

 

 

「シフト勤務と自分のリズム」

 

空港の業務は24時間体制で回っており、

 

シフトは三交代制でした。

 

* 午前8時〜午後5時

* 午後1時〜午後10時

* 午後10時〜翌朝8時

 

私はもともと朝が苦手だったこともあり、

 

午後1時から始まる

 

中間シフトが身体に合っていました。

 

学生時代から

 

寝坊グセが抜けなかった私にとっては、

 

このスケジュールが

 

ありがたかったのをよく覚えています。

 

 

「今だからこそ伝えたいこと」

 

今の羽田空港は国際化が進み、

 

施設も一新されて近代的な印象を受けますが、

 

私が働いていた時代の羽田空港には、

 

どこか人間味がありました。

 

泥くさくも、リアルで、

 

生きた職場という感じがしていました。

 

空港は単なる交通拠点ではなく、

 

働く人々の人生の舞台でもあります。

 

私はそこで、社会人としての基礎を学び、

 

人としての成長を実感できたように思います。

 

羽田空港での寝泊まり勤務は、

 

決して楽な仕事ではありませんでしたが、

 

今振り返れば貴重な人生の財産です。

 

お金をかけずに暮らせる環境、

 

チームとしての結束感、

 

そして空の下で働く誇り

 

あの頃の経験は、今でも心に深く残っています。

 

忙しない日常の中で、

 

ふとあの頃の羽田空港を思い出すと、

 

胸が熱くなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の羽田空港はこうだった!昭和時代に空港で働いたリアルな体験記

 

【羽田空港の裏側で働いた日々】昭和の思い出と空港の進化

 

令和のいま、羽田空港は日本を代表する

 

国際空港として多くの人に利用されています。

 

国内線はもちろん、

 

海外への玄関口としても重要な役割を果たし、

 

数多くの国際便が発着しています。

 

しかし、

 

現在のように洗練された巨大ハブ空港になる以前、

 

羽田空港にはもう少し素朴で

 

人間味あふれる時代がありました。

 

私はその「古き良き羽田空港」で、

 

約2年間働いていた経験があります。

 

まだ成田空港ができて間もない頃、

 

今回はその懐かしい記憶を辿りながら、

 

当時の空港の様子や仕事の内容をご紹介します。

 

 

昭和の羽田空港「国際線も国内線も集まっていた時代」

 

今では、国際便の多くは成田空港と分担され、

 

羽田空港は主に国内線のイメージが強いかもしれません。

 

しかし昭和の時代、羽田空港は

 

国内線・国際線ともに一手に担う大空港でした。

 

成田空港が開港したのは昭和53年(1978年)のことですが、

 

それまでの羽田空港には

 

アメリカン航空、アリタリア航空、

 

ルフトハンザ航空、ロシア(旧ソ連)の航空会社など、

 

世界中から飛行機が飛来していたのです。

 

 

私の仕事は「機内食の食器洗浄」

 

私は19歳から21歳までの約2年間、

 

羽田空港でアルバイトをしていました。

 

担当していたのは、

 

飛行機内で乗客に提供された

 

機内食の食器を洗浄する仕事です。

 

仕事場には業務用の大型洗浄機があり、

 

幅は2メートル、長さはおよそ20メートルほど。

 

ベルトコンベア式の洗浄機で、

 

トレーやキャサロール、

 

コーヒーカップ、スプーン、フォーク、皿など、

 

あらゆる食器を次々と投入していきました。

 

洗浄機に入れると、自動的に

 

洗い、すすぎ・乾燥までやってくれるため、

 

一見すると簡単な作業のように思われるかもしれません。

 

しかし、実際にはかなりの重労働でした。

 

 

「次から次へと届く大量の食器」

 

当時はジャンボジェット機が主流で、

 

1機に乗っている乗客の数は数百人規模。

つまり、

1便あたり数百セットの食器が戻ってくるのです。

 

そのため、食器洗浄の現場は

 

24時間体制の3交代制で運営されており、

 

常に人が働いいていました。

 

とくに夜間便や国際便が集中する時間帯は忙しく、

 

コンベアから流れてくる食器を

 

いかに滞らせず処理するかが勝負でした。

 

大量の使用済み食器は、ときには臭いも気になり、

 

手作業で仕分けたり、大きなトレーを持ち上げたりと、

 

体力勝負の日々でした。

 

 

「羽田空港の国際色豊かな時代」

 

羽田空港には、日本国内各地の航空便だけでなく、

 

アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど、

 

世界中の航空会社が乗り入れていました。

 

アメリカン航空、アリタリア航空、

 

ルフトハンザ航空、そしてロシアのアエロフロートなど、

 

多種多様な飛行機が飛来し、

 

機内食もそれぞれ異なっていました。

 

機内食のスタイルも国によって違いがあり、

 

例えば、

 

欧米の航空会社は金属製のカトラリーが多く、

 

日本の航空会社はプラスチック製だったり、

 

皿の素材が異なったり。

 

そんな違いを感じながらの仕事は、

 

単調ながらも興味深い面もありました。

 

 

空港で働いたからこそ見えた「空の裏側」

 

空港といえば、

 

旅立ちのワクワクや帰省のぬくもりなど、

 

華やかなイメージがありますが

 

しかしその裏側には、

 

24時間体制で動く無数の人々の努力があるのです。

 

私が働いていた食器洗浄の現場もその一つ。

 

乗客にとっては何気なく受け取る機内食のトレーも、

 

それを支える作業があってこそ提供されていたのだと、

 

今になってしみじみと感じます。

 

 

「平成以降、羽田空港は大きく進化した」

 

平成に入ってからの羽田空港は、

 

施設も大きくなり、滑走路も増設され、

 

ターミナルも近代化されました。

 

国際便も再び多く乗り入れるようになり、

 

再び世界と日本を結ぶ重要な空港となっています。

 

現在の羽田空港の姿を見るたびに、

 

「あの頃の古い羽田空港で汗を流していたこと」

 

を思い出します。

 

 

電車の京急(当時は京浜急行)が

 

直接羽田空港内のターミナルまで乗り入れしたのも

 

平成になってからです。

 

それまでは、はるか手前の

 

海老取川の手前が終点の駅でしたので、

 

京浜急行を利用していた乗客は皆、

 

タクシーかバスで

 

羽田空港内のターミナルまで移動していました。

 

二度手間で、とても不便でしたので

 

遠回りでもJR(当時は国鉄)の浜松町駅で

 

モノレールに乗っていく人が多かったですね。

 

 

そして、あの経験が

 

自分にとってかけがえのない

 

財産になっていると実感します。

 

 

「羽田空港の進化と、懐かしき日々」

 

現在の羽田空港しか知らない世代の方々にとっては、

 

昭和の羽田空港の姿は想像しづらいかもしれません。

 

しかし、あの場所にも人の営みがあり、

 

たくさんの想いと努力が詰まっていました。

 

私にとって羽田空港は、

 

単なる空の玄関口ではなく、

 

自分の青春の一部でもあります。

 

これから羽田空港を訪れる機会があれば、

 

ぜひそんな「裏側で働く人たちの存在」にも

 

思いを馳せてみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20代の青春を彩った「新宿の純喫茶」と深夜の過ごし方

 

20代の青春を彩った「新宿の純喫茶」と深夜の過ごし方

 

20代の頃、私は本当に喫茶店が大好きでした。

 

1日3回、多い時には5回も喫茶店に通っていたほどです。

 

朝の出勤前、昼休み、仕事終わりの夜と、

 

平日でも最低3回は立ち寄っていました。

 

休日ともなれば、喫茶店はまるで

 

もう一つの自分の部屋のような存在でした。

 

 

「朝寝坊から始まる、休日の喫茶店ライフ」

 

休みの日は、まず朝10時頃までぐっすりと寝て、

 

そこからのんびりと支度して

 

喫茶店へ向かうのが定番の流れ。

 

お気に入りの席に座って、

 

コーヒーを飲みながら新聞や雑誌を読む。

 

何とも贅沢な時間が、そこには流れていました。

 

店内にはタバコの煙とコーヒーの香りが入り混じり、

 

クラシックやジャズが静かに流れている。

 

そんな空間で過ごすひとときは、

 

日常の喧騒を忘れさせてくれるものでした。

 

 

「新宿の喫茶店は、友達との待ち合わせ場所」

 

友達と会うときの集合場所も、やっぱり喫茶店。

 

特に新宿の喫茶店をよく利用していました。

 

私は大森、友達は多摩エリアに住んでいたので、

 

新宿はお互いにとって都合の良い中間地点だったのです。

 

新宿には喫茶店だけでなく、

 

映画館、百貨店、本屋、レコード屋と、

 

何でも揃っていて退屈しません。

 

待ち合わせして、まず喫茶店で数時間おしゃべり。

 

話が盛り上がりすぎて、

 

気づけば2時間、3時間があっという間に

 

過ぎていることもよくありました。

 

 

「飲みよりも、また喫茶店」

 

おしゃべりに一区切りついたら、今度は一緒に食事。

 

食事後にまた別の喫茶店へ移動して、

 

さらに数時間語り合う

 

そんな時間の使い方が当たり前でした。

 

20代という時期は、

 

好奇心旺盛でエネルギーに満ちあふれていて、

 

話題も尽きることがありませんでした。

 

特に土曜日の夜に会うと、

 

次の日は日曜日。仕事のことを気にせず、

 

心ゆくまで喋れるという安心感もあり、

 

ついつい長居してしまうのです。

 

 

深夜の新宿と「深夜喫茶」という存在

 

当時は、深夜まで営業している喫茶店、

 

いわゆる「深夜喫茶」が新宿に多く点在していました。

 

深夜0時を過ぎても営業している店は貴重で、

 

終電を逃してしまっても、

 

深夜喫茶に入れば朝まで時間をつぶせたのです。

 

もちろん、深夜料金は発生しましたが、

 

それでも手軽で静かに過ごせる場所として、

 

多くの若者に利用されていました。

 

今のようにカラオケボックスや

 

ネットカフェ、24時間営業のチェーン店がなかった時代です。

 

夜の新宿での選択肢といえば、居酒屋か深夜喫茶。

 

多くの人が後者を選んでいたのは、

 

財布にやさしく、静かに語れる

 

空間だったからかもしれません。

 

 

「今では懐かしい、あの頃の外食事情」

 

当時は、今のように

 

23時間営業のファーストフード店は

 

ほとんどありませんでした。

 

マクドナルドやケンタッキー、

 

ロッテリア、ミスタードーナツなども、

 

夜10時か11時には閉店。

 

ファーストキッチンはまだ存在せず、

 

ジョナサンやガストも普及していない時代です。

 

ロイヤルホストやデニーズは一部にありましたが、

 

数が少なく、

 

探さなければ見つからないものでした。

 

今のように

 

「とりあえずファミレスで時間をつぶそう」という発想は、

 

当時にはありませんでした。

 

 

「カラオケ文化が生まれる前の歌の場所」

 

カラオケボックスが登場する前、

 

若者たちが歌を楽しむ場所といえば

 

「歌声喫茶」や

 

「レーザーカラオケのあるスナック」でした。

 

スナックには、小さなステージや

 

スタンドマイクが用意されており、

 

知らない客の前で一人ずつ歌うというスタイル。

 

今のように仲間内だけで盛り上がる

 

個室カラオケは存在せず、

 

「歌う=知らない人たちの前で歌う」

 

ことを意味していました。

 

人前で歌うことに抵抗がある人は、

 

歌声喫茶でみんなと一緒に

 

合唱するスタイルを選ぶこともありました。

 

あの頃の「喫茶店文化」は、私の青春そのもの

 

振り返ってみると、喫茶店は単なる飲食店ではなく、

 

私にとっては心のよりどころのような存在でした。

 

友達との再会の場所であり、

 

自分だけの読書時間の場所であり、

 

深夜の居場所でもあったのです。

 

今ではコンビニやチェーンカフェ、

 

スマホやSNSといった新しいライフスタイルが主流ですが、

 

昭和から平成初期にかけての「喫茶店文化」には、

 

時代を超えて共感できる温かさがあります。

 

機会があれば、もう一度あの頃のように、

 

純喫茶でゆっくりと流れる時間を楽しんでみたい

 

そんな気持ちにさせてくれる、懐かしい思い出です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【昭和平成初期の喫茶店文化】コーヒー1杯で何時間もくつろげた、あの頃の記憶

 

昭和平成初期の喫茶店文化コーヒー1杯で何時間もくつろげた、あの頃の記憶

 

今ではすっかり見かけなくなった「昔ながらの喫茶店」。

 

20代の頃、私はそんな喫茶店が大好きで、

 

まるで自分の部屋のように、毎日のように通っていました。

 

当時はコーヒーが一杯250円から300円程度。

 

今のようなカフェチェーンも少なく、

 

個人経営の喫茶店が街の至るところにありました。

 

レトロなソファ、木のテーブル、

 

タバコの香りとコーヒーの匂いが混ざった独特の空間。

 

そこで私は、何時間でもくつろいでいたのです。

 

 

「コーヒー一杯で5時間、誰も文句を言わなかった時代」

 

今でこそ、カフェで長居をすると

 

白い目で見られることもありますが、

 

当時はそんな空気はまったくありませんでした。

 

「喫茶店はくつろぐ場所」

 

「心を落ち着ける場所」

 

これが当たり前の認識で、

 

300円で3時間、時には5時間いても、

 

誰にも咎められません。

 

むしろ、お店の人も顔なじみになり、

 

居心地のよい「もうひとつの居場所」になっていきました。

 

新聞を読む人、本に夢中になる人、

 

黙々とノートに書き物をする人、

 

友達とおしゃべりを楽しむ人。

 

時には学生のサークルの打ち合わせ、

 

仕事の会議まで、さまざまな人々が集う、

 

まさに街のサロンだったのです。

 

 

「集合場所=喫茶店だった頃の暮らし」

 

スマホもSNSもない時代、

 

誰かと会う時は「どこどこの喫茶店に10時集合ね」

 

という約束が主流でした。

 

駅前や街にはいたる所には喫茶店があり、

 

いつもにぎわっていました。

 

1日3回行くことも珍しくなく、

 

多い日は5回以上はしごすることもありました。

 

朝はモーニングを求めて喫茶店へ。

 

コーヒー1杯に、トースト、ゆで卵、

 

ポテトサラダやフルーツがついて250円から300円。

 

これが私の朝食ルーティンでした。

 

昼もまた喫茶店。

 

ランチセットにはドリンクが付いていて、

 

財布にも優しい。軽食だけ済ませて、

 

あとは読書や考え事に没頭する時間です。

 

仕事が終わってからは、

 

飲みに行かない日は喫茶店に直行。

 

まずはホットコーヒーを頼んで、

 

夜遅くまで静かに過ごすのが日課でした。

 

「雑誌・新聞・漫画…情報の宝庫だった店内」

 

今でこそスマホひとつで情報が手に入りますが、

 

当時は喫茶店が情報の入り口でした。

 

ほとんどの店には新聞が何紙も置いてあり、

 

朝刊・夕刊を自由に読めました。

 

雑誌や週刊誌、漫画やコミックも揃っていて、

 

キオスクやコンビニでわざわざ買わなくても、

 

店内で十分に楽しめたのです。

 

雑誌を読んで流行を知り、

 

新聞を読んで世の中の動きを知る。

 

こうした情報収集の時間もまた、

 

私にとっては貴重なひとときでした。

 

「テレビは深夜1時で終了。娯楽の中心は喫茶店だった」

 

当時の家庭内の娯楽といえば、テレビかラジオくらい。

 

パソコンやスマホもなければ、DVDもありません。

 

テレビ番組も深夜1時か2時には

 

すべて放送が終了していました。

 

テレビ東京(当時は東京12チャンネルでした)は特に早く、

 

1時前にはすでに砂嵐。

 

NHKでは自然風景とBGMを流しながら、

 

天気予報のテロップだけが

 

横に流れるような静かな映像が続いていました。

 

中でも印象的だったのは、

 

フジテレビがよく放送していた

 

「箱根 彫刻の森美術館」の風景。

 

今でも流れていますが

 

静かに流れる音楽と彫刻の映像は、

 

まさに終わりの時間を告げるものでした。

 

そんな夜の娯楽が限られた時代だからこそ、

 

喫茶店で過ごす時間が何よりも贅沢だったのだと思います。

 

「今、喫茶店文化を見直すときかもしれない」

 

時代が移り変わり、

 

喫茶店も次第に姿を消しつつあります。

 

チェーン系カフェは便利ですが、

 

あの頃のような人のぬくもりや

 

会話の温度は、なかなか感じられません。

 

私は今でも、時々レトロな喫茶店を見かけると、

 

ふと立ち寄ってしまいます。

 

そこには、どこか懐かしくて、

 

時間がゆっくり流れる空間があります。

 

コーヒー一杯で心が落ち着く。

 

そんな場所を、

 

私たちはこれからも大切にしていきたいものですね。

 

 

 

 

 

 

「東京湾を空中散歩 ゆりかもめで楽しむ未来都市の風景」

 

東京湾を空中散歩 ゆりかもめで楽しむ未来都市の風景

 

 

東京都心から臨海エリアを結ぶ

 

新交通システム「ゆりかもめ」。

 

正式名称は「東京臨海新交通臨海線」といい、

 

1995年(平成7年)に開業しました。

 

無人運転の新交通システムとして、

 

当時はとても未来的な乗り物として話題を集めました。

 

それからすでに約30年近くが経ち、

 

今ではすっかり東京の風景に溶け込んでいます。

 

新橋から有明へ。短いけれど濃密な路線

 

ゆりかもめは、東京都港区の「新橋駅」から、

 

江東区の「有明駅」や「豊洲駅」へと続く路線です。

 

全長約15kmほどの比較的短い路線ですが、

 

その車窓からの眺めは

 

都内随一の美しさと言えるでしょう。

 

新橋を出発すると、

 

ビル群の谷間を縫うように走り抜けます。

 

無人運転で運転席がないため、

 

先頭や最後尾からの眺めはまさに空中遊覧。

 

まるでジェットコースターに

 

乗っているような感覚になります。

 

やがてビルの合間から東京湾が見えはじめ、

 

船の姿もちらほら。

 

日常生活では

 

なかなか目にすることのない港の風景が、

 

目の前に広がってきます。

 

「船の科学館とレインボーブリッジの絶景」

 

「船の科学館前」駅に近づく頃には、

 

海の香りが漂ってくるような気がします。

 

普段の生活ではあまり意識することのない海という存在が、

 

ここではすぐそばにあります。

 

大型の貨物船や観光船が行き交う風景は、

 

見ていて飽きることがありません。

 

さらに進むと、

 

東京湾の象徴的存在

 

「レインボーブリッジ」が姿を現します。

 

その大きくしなやかなフォルムの上には、

 

自動車が行き交う円形のドーナツ型道路。

 

海・橋・道路が重なるその構図は、

 

まるで未来都市のような美しさです。

 

「お台場の魅力と今はなき名所たち」

 

ゆりかもめのハイライトとも言えるのが

 

「お台場」エリアです。

 

フジテレビの球体展望室が見えてきたり、

 

ひときわ目を引く大観覧車が姿を現したり

 

観覧車は2022年に惜しまれつつ営業を終了しましたが、

 

その大きさと存在感は

 

今でも多くの人の記憶に残っていることでしょう。

 

 

「お台場で出会えるもうひとつの主役実物大ガンダム」

 

お台場海浜公園駅や台場駅に近づくと、

 

フジテレビの球体展望室や

 

観覧車のあった跡地が見えてきますが、

 

もうひとつ、ここで忘れてはならない存在があります。

 

それが、実物大の「ガンダム」立像です。

 

現在は、商業施設

 

「ダイバーシティ東京プラザ」前に設置されている

 

ユニコーンガンダム立像(高さ約19.7メートル)

 

が人々を出迎えています。

 

かつてのRX-78-2ガンダムから姿を変え、

 

今では変形演出やライトアップもある

 

近未来的なガンダム像として、

 

国内外の観光客の注目を集めています。

 

私が初めてこのガンダムを間近で見たとき、

 

その迫力に思わず足を止めました。

 

機体表面の細かなディテールまでしっかり再現されており、

 

「まさにアニメの世界が現実になった」と感じた瞬間でした。

夜にはライトアップも行われ、

 

日中とはまた違う表情を見せてくれます。

 

近くには

 

「GUNDAM BASE TOKYO(ガンダムベース東京)」

 

という公式ショップも併設されており、

 

ガンプラ(ガンダムのプラモデル)ファンには

 

たまらない空間です。

 

ショッピングモールやレストラン、

 

公園なども集まるお台場周辺は、

 

ファミリーにもカップルにも人気の観光スポットです。

 

休日には多くの人でにぎわい、

 

路線の車内もにぎやかになります。

 

 

「国際展示場と東京ビッグサイト」

 

「国際展示場正門」駅を過ぎると、

 

巨大な逆三角形の建物

 

「東京ビッグサイト(東京国際展示場)」

 

が見えてきます。

 

ここでは国内外の大型イベントや見本市、

 

コミックマーケットなどが開催されており、

 

訪れたことのある人も多いはず。

 

独特な建築デザインと広大なスペースは、

 

まさに国際の名にふさわしいスケール感。

 

駅から徒歩数分で会場にアクセスできるのも、

 

ゆりかもめならではの利便性です。

 

「無人電車の未来感と夜景の美しさ」

 

ゆりかもめは完全自動運転システムを採用しており、

 

運転士はいません。

 

ですが、普段ただ乗っているだけでは

 

気づかない人も多いかもしれません。

 

それほど滑らかで安定した走行が魅力です。

 

夜に乗車すれば、また違った表情が楽しめます。

 

レインボーブリッジのライトアップ、

 

海に映るネオン、お台場の夜景

 

まるで宝石を散りばめたような光景が

 

窓一面に広がります。

 

昼の開放感とは打って変わって、

 

幻想的な都市の顔を見せてくれます。

一度は乗ってほしい、東京の空中散歩

 

旅行者にはもちろん、都内在住の方にも

 

ぜひ一度体験してほしいのが、

 

ゆりかもめの車窓の旅です。

 

観光の移動手段というよりも、

 

景色を楽しむために乗る電車

 

と言っても過言ではありません。

未来的な無人運転、東京湾の眺望、都市の光と影

 

たった30分ほどの短い旅ですが、

 

その中に「東京の魅力」が

 

ぎゅっと詰め込まれています。

 

まだ乗ったことがないという方は、

 

ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

きっと、普段見ている東京とは

 

まったく違う一面が見えてくるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

【原宿竹下通りの記憶と今】若者文化の発信地で見た景色

 

【原宿竹下通りの記憶と今】若者文化の発信地で見た景色

 

 

東京・原宿。中でも「竹下通り」は、

 

若者文化の象徴として世界的にも知られた場所です。

 

私が初めて竹下通りを歩いたのは

 

もう何十年も前のことになりますが、

 

いまもその賑わいは変わることなく、

 

多くの若者や観光客を惹きつけています。

 

 

日曜や祝日ともなれば、

 

まるで満員電車のような混雑。

 

前にも後ろにも進めないほどの人の波の中、

 

まるでその一員として

 

流されるように歩いた記憶がよみがえります。

 

 

そしてその風景の中に、

 

最近では多くの外国人観光客の姿も

 

目立つようになりました。

 

近年、日本のアニメや音楽、

 

ファッション文化は世界中に広まりつつあり、

 

原宿はその「聖地」として

 

訪れる外国人も多くなっています。

 

 

原宿ファッション、原宿スイーツ、そして竹下通りは、

 

彼らにとって

 

本物の日本のカルチャーに触れられる場所。

 

 

もはや日本人以上に

 

原宿を愛している外国人もいるのではないか

 

と思うほどです。

 

 

「原宿駅の新しい顔と、かつての駅舎の思い出」

 

長年、原宿の入り口として親しまれてきた旧駅舎は、

 

木造のレトロな雰囲気が特徴でした。

 

大正時代からの歴史を持ち、

 

まるで昔の洋館のような外観が訪れる人々を

 

温かく迎えてくれていました。

 

しかし、

 

2020年に老朽化や安全性の観点から解体され、

 

新たに現代的な原宿駅舎が誕生しました。

 

新駅舎は、ガラス張りのファサードが特徴で、

 

光を多く取り入れる開放的なデザインになっています。

 

バリアフリー設備も整えられ、

 

エスカレーターやエレベーターの導入により、

 

以前よりも多くの人にとって

 

利用しやすい駅へと生まれ変わりました。

 

 

それでも、

 

昔の駅舎に親しみを持っていた私にとっては、

 

どこか寂しさを感じる部分もあります。

 

竹下通りを目指して電車を降りたとき、

 

まず目に飛び込んできたのは

 

あのレトロな三角屋根の駅舎だったからです。

 

 

今の駅舎はスタイリッシュで便利。

 

けれど、時代が変わっても、人々の記憶の中には、

 

あの旧駅舎の面影が

 

ずっと残っていくのではないかと思います。

 

 

「原宿駅前の変化と、記憶に残る白いビル」

 

原宿駅を降りると、

 

すぐ目の前に竹下通りの入り口があります。

 

その左手に、かつて白くて印象的な建物がありました。

 

今ではもう取り壊され、新しいビルになっていますが、

 

当時はとても目立つ建物でした。

 

 

特に印象に残っているのが、

 

ビルの3階部分に設置されていたプール。

 

 

丸いガラス窓越しに水が見え、

 

電車の中からもその様子がよく見えました。

 

当時(昭和50年代)、

 

ビルの高層階にプールを設けるのはかなり珍しい発想で、

 

「どうやってあんな場所に水を張っているんだろう」と

 

感心しながら眺めていたものです。

 

今思えば、防水・構造面での

 

技術的なチャレンジもあったことでしょう。

 

当時の私は

 

「そんなに水をためたらビルがもろくなるんじゃ…」と

 

不安に思ったことも。

 

けれどそれ以上に、目の前に広がるその風景が、

 

いかにも原宿らしいと感じられ、

 

原宿駅に降り立つたびに、

 

ついその建物を見上げてしまっていたのを覚えています。

 

 

時代とともに街並みが変わり、

 

あの建物も姿を消してしまいました。

 

けれど私にとって、

 

原宿の象徴のひとつだったことは変わりありません。

 

 

「竹下通りを歩く楽しみ」

 

 

竹下通りを歩きはじめると、右側には吉野家、

 

左側にはマクドナルドがあります。

 

ファストフードではありますが、

 

どちらも気軽に立ち寄れるお店で、

 

買い物や散策の合間に

 

ほっと一息つくのにぴったりな場所です。

 

 

そして、通りの中ほどに進むと見えてくるのが、

 

左右に構えるクレープ店。

 

色とりどりのクレープがずらりと並び、

 

ショーケースを覗き込むだけでワクワクしてきます。

 

フルーツ、生クリーム、チョコレート、

 

チーズケーキが巻かれたものまで、

 

実にバリエーションが豊かで、

 

どれにしようか迷ってしまうほど。

 

 

この通りを歩くたび、

 

「今日はどれにしようかな」とつい立ち止まり、

 

クレープを手に食べ歩きを楽しむ若者たちの姿を見て、

 

自分も若かった頃の気持ちを思い出します。

 

 

原宿ラフォーレの入口にも

 

別のクレープショップがありますが、

 

それぞれのお店に特徴があり、

 

食べ比べしてみるのも楽しいひとときです。

 

 

「消えていった思い出の場所も」

 

 

竹下通りの中ほどから右手に曲がる細い路地。

 

そこを進んでいくと、

 

美容室が並ぶ静かなエリアに入ります。

 

その途中に、かつて

 

「エルビス・プレスリー・ミュージアム」

 

という小さなお店がありました。

 

店の前には、ギターを持った

 

等身大のエルビス・プレスリーの銅像が立っていて、

 

まるでその空間だけアメリカのロック時代に

 

タイムスリップしたかのような、

 

不思議な雰囲気を醸し出していました。

 

久しぶりに訪れてみると、

 

そのお店も姿を消し、銅像もなくなっていました。

 

 

寂しさを感じつつも、街が生きていること、

 

そして常に変化し続けていることを実感させられます。

 

 

原宿の魅力は「変わり続けること」

 

こうして見てみると、原宿という街は、

 

常に新しいものを取り入れ、

 

古いものを手放しながらも、

 

人々を惹きつけてやまない

 

魅力を持ち続けていることがわかります。

 

 

若者の聖地であり、

 

ファッションとカルチャーの発信地でありながら、

 

どこか懐かしさも漂う。それが原宿です。

 

 

これからも街は姿を変えていくことでしょう。

 

でも、そこにはきっと変わらない人の熱気があり、

 

歩くたびに新しい発見が待っている。

 

原宿は、そんな場所なのだと思います。